国際ゲノムシンポジウムを開催して
2012年6月4日
東京農業大学総合研究所 教授 佐々木卓治
─ゲノム解析研究により何がわかり何をめざすのか─
みなさんは「ゲノム」という言葉を耳にされたことがあると思う。もしそうでなくても、「メンデルの法則」や「DNA」という言葉については記憶の一部にとどめられているのではないだろうか。わたしたちすべての生命あるものはそれが35億年前に誕生して以来、今日まで親から子供、子供から孫へと生命の仕組みをDNA(デオキシリボ核酸)に書き込んで遺伝の法則に従って伝えてきている。ゲノムという言葉は生命体がもつ固有の遺伝情報のすべてを指す概念として提唱された。ただし、今から約30年前に起きた革命的な技術、DNAを構成する4種類の成分(塩基)の並び方を自動的に決定できる装置の開発によってゲノムはある生物の遺伝情報の実体としての染色体に含まれるDNA総体を指すようになった。この自動装置1台で開発当初は1日で1万塩基を読み取れるのがやっとという性能だったが、その後の技術革新によって現在では百億塩基あるいはそれ以上を数日で読み取ることができるようになっている。私たち人間のゲノムは22本の常染色体と男女別の性染色体各1本で構成され、総計で30億個の塩基を含んでいるので、単純な計算では1台あれば数人のゲノム塩基配列が数日で決められることになる。実際には情報の確かさを保証するために同じ箇所を何重にも読んだりするので、もっと時間はかかるが、以前よりはるかに容易に塩基配列の解読が行えるようになっている。農大には平成20年度より文部科学省・私立大学戦略的研究基盤形成支援事業の支援をうけて生物資源ゲノム解析センターが開設され、そこには最新型の塩基配列自動解析装置(シーケンサー)が2台設置されている。これらのシーケンサーが生み出す配列量は膨大で、従来の情報解析のイメージでは想像もできないほどである。最新のシーケンサーはコンピューターそのものと考えてもあながち間違いではない。
このようなシーケンサー開発が米国において競って行われている背景には、われわれ人間の病気の多くは遺伝情報に依存して発病する傾向があるという基本的な考え方があり、個人の遺伝情報を読んで医療を行う方向性が確立されているからだ。つまり、最新のシーケンサーはこの用途に合致するように開発されているといえる。人間以外の生物、例えば家畜や穀物といった農業生物や、環境との相互作用が生育に必須な野生生物、あるいはあらゆる場所に生育する微生物のゲノム解析は、ある局面ではこの恩恵を受け、またある局面では物足りなさも感じつつ、この最新型シーケンサーで行える範囲でゲノム解析を行い、得られる情報を最大限利用した生物学への展開を試みている。農大ゲノム解析センターでは開設以来、学内の塩基配列解読の需要に応えて、多様な生物の遺伝情報解読に成功している。例えば、わが国固有の種である「口之島ウシ」のゲノム、日本酒用の酒米「雄町」のゲノム、あるいは発酵に関わる微生物のゲノムなどが解読され、成果が著名な学術雑誌に論文として掲載されると同時に、配列情報を利用してそれぞれの生物に特有の遺伝子の探索や、ゲノムの成り立ちなどの研究が開始されている。
ゲノム解析研究分野は日々の進歩がめざましく、常に新しい研究の進展方向や考え方を取り入れていかないと世界の趨勢から取り残されてしまい、せっかくの設備が無用の長物になってしまいかねない。このようなことを避けるためには最新の成果を発表論文で学ぶだけではなく、論文の著者のお話を直接聞くなり会って討論をすることが欠かせない。今回開催した国際ゲノムシンポジウム「Genome Research:Current Challenge and Future Directions」はこの目的のために開催した。海外から5人、国内から6人の講演者を招き、最新の研究成果を講演してもらうと同時に、ゲノム解析センターを利用して行っている研究成果20題もポスターで発表された。大澤貫寿学長の開会の挨拶(写真1)に始まり、続いて2題の基調講演が行われた。まず国立遺伝学研究所の五條堀孝教授(副所長)から現在大量に生み出されている配列情報をどのように解析すれば、その中から意味のある情報が取り出せるのか、について講演があり、次に米国コールドスプリングハーバー研究所のリチャード・マッコンビー博士が現在のシーケンサーよりも更に高速解読が行える機種の使用経験や、ゲノム情報の中から遺伝子部分を効率的に読み取る新たな方法を紹介された。引き続き行われた一般講演では、以下の9人の先生方の講演があった。海外からの4人の招待講演者では、英国ウェルカムトラスト・サンガー研究所のアールノ・パロティ博士からヒトの遺伝病について塩基配列情報を利用して原因遺伝子を解明する最新の手段の紹介が、英国バブラハム研究所のガビン・ケルセイ博士からマウス卵母細胞で後天的に起きる塩基の化学的変化と遺伝子発現の関連について、英国ロスリン研究所のデビッド・バート博士からゲノム構造の特徴から解析した鳥類の進化について、また米国デラウエア大学のブレイク・マイヤーズ教授からは植物の病気防御に関わる遺伝子を制御しているマイクロRNAの特徴についてそれぞれ講演があった。国内からの5人の招待講演者では、動物遺伝研究所の杉本喜憲博士からはウシゲノム情報を利用した1塩基多型(SNP)の収集について、東京大学大学院の嶋田透教授からはカイコが桑葉を唯一の食餌としている生理的理由の解明について、東京大学大学院の小林一三教授からはピロリ菌におけるゲノム構造の再編と病原性の関係について、農業生物資源研究所の黄川田隆洋博士からはネムリユスリカの乾燥耐性と遺伝子の相関について、同じく農業生物資源研究所の大野陽子博士からはリン欠乏・過剰ストレス条件下でのイネ発現遺伝子の網羅的解析についてそれぞれ講演があった。20題のポスター発表は大学院生・ポストドクなど若手研究者を中心に行われ、説明と討論が熱心に行われた。招待講演者と実行委員の集合写真を写真2に、またプログラムの詳細をhttp://www.nodai-genome.org/event_1htmlに掲載した。
国際ゲノムシンポジウム当日はあいにくの雨模様の天気であったが、173名の参加があり、そのうち52名は他大学や研究所、官庁など学外の方々であった。今回のシンポジウムへの関心の高さが伺える。また、ゲノム解析センター関係者をはじめ、農大からの参加者にとっても現在研究中の課題の遂行あるいは今後の新しい研究課題の設定に役立つと考えられる。生物資源ゲノム解析センターへの文部科学省からの財政支援は平成24年度で終了する。しかし、農業生物の生産性や資源としての有用性、あるいは育種改良にはこれらのゲノムを解析し、その生命維持の基盤となる情報を獲得して遺伝、生殖、あるいは進化等を理解することが重要である。センターの継続した運営・活動の重要性も今回の国際シンポジウムで併せて示されたと信じている。
写真1 挨拶をする、大澤貫寿東京農大学長
写真2 招待講演者と実行委員の集合写真