東京農業大学

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教員コラム

経験知から科学知へ

2011年11月14日

教職・学術情報課程 教授 熊澤 恵里子

駒場農学校化学教師エドワード・キンチ

日本における高等農学教育は、他分野にやや遅れてスタートした。東京帝国大学農学部の前身ともなる農事修学場(後に農学校と改称)は、英人教師5名を迎え、1878年1月24日に明治天皇来席のもとで盛大な開校式を行っている。英人教師5名のうち、獣医学教師マクブライト、農学教師カスタンス、化学教師キンチはいずれも英国サイレンセスター王立農学校の関係者であった。駒場農学校英人教師の業績は、その後のケルネルら独人教師の活躍の影に隠れて、すっかり忘れ去られてしまった感があるが、近代的化学分析に基づいた農学研究と農場における農業実習という「研究と実践」を兼ね備えた高等

農学教育の定礎は、英人教師により構築されたものとして評価したい。
この研究は、私が追究するテーマ「教育の近代化とは何か」の一貫であり、「経験知から科学知へ」と進化する農学は、近代学問の起源と編成を考える上で重要な課題である。

 

横井時敬の恩師、文通も

東京農大初代学長横井時敬は、駒場農学校農学科2期生である。その卒業証書(明治13年6月、農大図書館所蔵)には、農学校校長関沢明清とともに、農学教師ジョンD・カスタンス、化学教師エドワード・キンチの署名が記入されている。横井と英人教師との関係は良好だったようで、農学校時代のノートには、カスタンスの講義録も残されている(農大図書館所蔵)。また、1881年4月に帰国したキンチとはその後も文通を続け、1900年7月にはサイレンセスター王立農学校のキンチを訪問している。横井とキンチの文通書簡については、残念ながら、農大図書館所蔵横井時敬文書には収められていないようである。

キンチは1876年11月に駒場農学校の化学教師として招聘され、「五六年の間多くの人々を薫陶され背の高い端麗な風彩で教授振の親切なさうして少し吃る人で、非常な人望家であつた」と評されている。英人教師5名の中で、キンチは帰国後も英国を訪れる教え子や農学関係者らの面倒を見るなど、日本の農芸化学の発展に貢献した。キンチは、1913年7月には、日本から農学博士の学位を授与されている。これは、間接的とはいえ新しい時代を担う多くの若者を育てたという意味において、キンチにふさわしい称号であった。

 

化学分析の技術を伝える

駒場農学校で使用された『チャーチ氏実験指南書』(第4版、1879年50部購入)は、英国サイレンセスター王立農学校化学教授チャーチが著した農芸化学の実験教科書である。1864年の初版刊行以来改訂を重ね、1874年の第3版で大幅に頁数を増やし、第8版で版権がキンチに譲渡され、1911年の第9版が最後となった。第4版は日本のほか、オーストラリア、インド、イタリアでも使用された。版を重ねるごとに、実験の手順や説明が図や化学式を使いよりわかりやすく手直しされたこの教科書は、「チャーチの元助手で英国ローザムステッド農事試験場の研究者ワーリントンと現助手キンチの二人が綿密な実験により検証を行った成果」であった。ローザムステッド農事試験場は、世界的にも最高峰に位置する農事試験場として知られていた。キンチは来日直前にも

ローザムステッドを訪れ実験を見学しており、最新の化学分析実験技術と研究を伴っての来日だったことがわかる。

駒場農学校でのキンチは1日6時間以内の授業を義務づけられ、無機化学、有機化学、農芸化学を受け持った。また、職務に支障のない限り化学分析の実施が許可され、キンチは着任早々精力的に土壌分析に取り組んでいる。例えば、岩手県の甜菜栽培地の土質分析結果についてキンチは、気候が合えば甜菜栽培に適する土質であると述べ、甜菜根糖製造所を建設する前に栽培試験を行い、経済的な観点からも甘蔗糖との比較検討をすすめている。また、甜菜根を密接して並べて置けば、根の形が小さくなるが糖分が増加するだろうと助言を与えている。肥料等の効能は成分により判定するという知識は、日本でもすでに知られていたが、それを実行する分析技術が求められていたのである。

キンチの化学実験・分析は多くの農学校生徒により支えられ、その結果は英文で世界へ発信された。Natureの論評(1881)や米国オハイオ州の新聞記事(1882)により、キンチの研究成果が広範に紹介され、西洋社会がほとんど食しない根菜類、海藻類など、ダイナミックな日本の食文化を世界に知らしめることとなった。

 

終の住処「KOMABA」

キンチが化学教授としてサイレンセスター王立農学校在任中の1881年6月から1915年の間に、農学科2期生の沢野淳、大内健、酒勾常明、農学科6期生の三成文一郎、長岡宗好、獣医学科1期生の新山荘輔、同2期生の須藤義衛門ら、駒場農学校、東京農林学校卒業のそうそうたるメンバーを含む、合わせて34名の日本人が訪れている。1892年に日本で最初の農商務省農事試験場長となった沢野淳は、1889年6月28日に老農林遠里らを伴い訪問しており、日本農業が近代化を図るにおいて、英国農業視察が非常に重要な位置を占めていたことがわかる。また、名簿に記載はないが、1900年7月22日に横井時敬と農学科3期生恩田鉄弥もキンチを訪ねている。

キンチが若き日を過ごした駒場農学校の時代をいかに懐かしみ、教え子を大切にしていたかは、定年後移り住んだ家に「KOMABA」と命名したことにも忍ばれる。キンチは、ロンドンの南、サリー州ヘーゼルメアのダービーロード墓地にひっそりと眠っている。墓碑には次のように刻まれている。「EDWARD KINCH OF KOMABA, DIED AUGUST 6TH 1920. AGED 71, FORMERLY PROFESSOR AT THE ROYAL AGRICULTURAL COLLEGE CIRENCESTER AND THE IMPERIAL UNIVERSITY. TOKIO」。この墓碑の最後に刻まれたUNIVERSITY. TOKIOには大きな意味が隠されている。博士号授与という名誉と同時に、オックスフォード大学での農学教授職設立を果たせなかった無念さが感じられるのである。オックスフォード大、ケンブリッジ大では、現在も専任の農学教授職は設置されていない。キンチが目指した農学研究と実践の融合は、日本ではドイツ人教師により組織化され具現化した。その一方で、キンチの時代には密接な関係にあった王立農学校とローザムステッド農事試験場(現、ローザムステッド研究所)は、現在はそれぞれ農業経営、化学分析に力点を置いており、連携する機会もほとんどない。

 

キンチに学んだ松平康荘

サイレンセスター王立農学校でキンチに直接師事した唯一の日本人が、松平康荘(やすたか)である。幕末明治に活躍した福井藩松平慶永(春嶽)の孫で、1884年に17歳で陸軍修行のために独国へ留学したが、上手くゆかず英国留学に転じ、1889年王立農学校へ入学した。旧家臣らの大反対を押し切って入学した康荘は、「昨夏農学校ニ入学仕り候より、此ニ始メテ生涯の目的も相立、尓来都合も宜敷、今日迄勇テ勉強罷在り候事ニ御座候」と、ようやく自分にあった学問修行に巡り合えた喜びを吐露している。祖父宛書簡には「カレッジでは農業実習が多いので、体も大変丈夫になり顔もだいぶ日焼けしました」とあり、実学により自立の道へ一歩踏み出した康荘の姿がうかがえる。帰国後、1893年に福井城跡地に創設した松平試農場で康荘が目指したのは、西洋式農場経営の導入でも、西洋農作物の移植でもなかった。松平試農場を"Matsudaira's Agricultural Experiment Station"と英訳したように、康荘が目指したのは日本における近代的な農事試験場、すなわちExperiment Stationの創設であった。柿や梨など果樹栽培を中心に研究が行われた。試農場の創設は、奇しくも日本で最初の官立農事試験場の創設と同じ年であった。康荘は試農場経営の傍ら、自らも農学の講義を受講するなど研鑚を積み、1904年8月には大日本農会の名誉会員に推挙され、会頭に就任するなど活躍している。

 

実践の学としての農学

駒場農学校化学教師エドワード・キンチが紹介した化学分析は、農学校生徒に農学研究と近代農業の連携との可能性を示し、日本の農芸化学の定礎となった。駒場農学校の教え子横井時敬や沢野淳から王立農学校の教え子松平康荘までの広範なキンチ人脈は、徹底した化学分析による農学研究を継承し、農業の近代化に貢献した。経験知に依存してきた近世的手法に化学分析という科学知を加えることにより、日本の農業は、近代的産業へと着実に発展を遂げ、同時に、学問としての農学教育も世界的水準へ進化していったのである。

 

注)キンチについては、拙稿「駒場農学校英人化学教師エドワード・キンチ」(『農村研究』第113号、2011)、松平康荘については、同「松平康荘の英国農業留学」(『英学史研究』第42号、2009)を参照のこと。

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