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教員コラム

東京農大初代学長 生誕150年 横井時敬の足跡日本における近代農学の開拓者

2010年12月14日

東京農大初代学長 生誕150年 横井時敬の足跡国際食料情報学部食料環境経済学科 教授 友田 清彦

横井時敬は、東京大学農学部の前身である駒場農学校農学科を、明治13年(1880)6月、第2期生として卒業した。第1期生は、同年3月の卒業であるから、わずかに3ヶ月遅れただけで、わが国最初の農学士の一人と言ってよい。ちなみに、札幌農学校(のち北海道大学農学部)の第1期生は同年7月の卒業である。一時期、兵庫県に奉職するが、間もなく辞職し、明治15年(1882)3月、福岡県農学校に教諭として赴任した。その後、福岡県勧業試験場長を経て、明治22年(1889)2月に農商務省に移るまでの約7年間が、いわゆる福岡時代である。この時代は横井の生涯にとって、計り知れない大きな意味をもった。横井を同時代の他の農学者と区別して、「実学的農学者」と呼ぶことがしばしば行われるが、「実学的農学者」横井を育てたのは、まさにこの福岡時代だったからである。


画期的な塩水撰種法

横井時敬が駒場農学校を卒業した前後の時代は、明治政府の農業政策の転換期に当たる。農政の基本方向が、泰西農法(西洋農法)の移植から在来農事の改良へと大きく変わったのである。「老農崇拝熱」が盛んになり、「明治三老農」をはじめとする老農たちが全国で起用され、駒場などを卒業した農学士たちは冷遇された。横井ら新進の農学士たちは、駒場農学校でイギリス人教師たちからイギリス農学を学んだが、それは日本の稲作や養蚕に、直接的にはほとんど役に立たなかったからである。
横井が赴任した福岡県には、「明治三老農」の一人林遠里がいた。若き横井が林遠里の名声に対抗するための武器は、近代農学の学理であった。近代農学の学理に基づきつつ、地域の老農たちなどとの交流の中から、横井が生みだした技術が塩水撰種法である。塩水撰種法は、近代農学者の最初の成果であり、しかも今日でもその技術が用いられていることから解るように、画期的な農民的技術であった。駒場の同期生酒勾常明の『改良日本米作法』と並ぶ、わが国最初の近代的稲作技術書『稲作改良法』を刊行したのも福岡時代であった。

 

足尾鉱毒問題を告発

福岡時代から始まる横井時敬の前半生の業績は、稲作技術の改良などをめぐる技術系農学者としての業績が中心となる。その著書だけ見ても、明治20年(1887)『農業小学』、明治21年(1888)『農業小学補遺』、明治24年(1891)『農業読本』、明治25年(1892)『農業汎論』、明治26年(1893)『初等農学』、明治31年(1898)『栽培汎論』、明治37年(1904)『稲作改良論』などが挙げられる。昨年9月、小田切秀雄・渡邊澄子編『明治の名著 一 ─論壇の誕生と隆盛─』(自由国民社)が刊行された。そこには、福沢諭吉『学問のすすめ』、横山源之助『日本の下層階級』、柳田國男『遠野物語』など70余冊の明治の名著が紹介されており、農学関係では柳田國男『時代と農政』、新渡戸稲造『農業本論』と並んで、横井の『栽培汎論』が取り上げられている。70余冊の中で、農学関係はこの3冊だけで、自然科学・技術学にかかわる著書としては『栽培汎論』のみである。
明治22年(1889)、福岡時代が終わる。横井の業績が、東京農林学校(駒場農学校の後身)の農学教師であったドイツ人農学者フェスカの着目するところとなり、政府から絶大な信頼を集めていたフェスカの進言により、農商務省技師試補に任ぜられたのである。さらに翌23年(1890)7月には農務局第一課長兼勤を命ぜられたが、就任後間もない同年9月、農学士の待遇をめぐって上司と衝突し、横井は農商務省を辞職する。反骨の人・横井時敬の面目躍如たる感がある。
こうして、横井の浪人時代が始まる。この浪人時代は、農政思想家としての出発の契機でもあった。明治23年(1890)11月における『産業時論』の創刊がその第一歩である。『産業時論』は、わが国最初期の農政経済雑誌であり、横井は主幹として健筆を揮った。中でも、足尾鉱毒問題が顕在化して間もない時期に、この事件を社会に告発したことは注目されよう。
ちなみに、横井はその後も足尾銅山鉱毒事件や別子銅山煙害事件にかかわり、横井逝去の時には、渡良瀬川沿岸被害民の代表が巨大な弔旗をもって葬儀に参列した。この弔旗は、本学図書館大学史料室が所蔵し、現在そのレプリカが1階に展示されている。『産業時論』を横井が個人で継続することは困難で、間もなくこの雑誌は廃刊となった。そこで、翌明治25年(1892)1月に博文館から『日本農業新誌』を創刊し、横井は主筆を務めた。これは、明治・大正期の大出版社博文館との関係の始まりともなった。

 

『興農論策』の貴重な提言

横井時敬は、すでに明治22年(1889)1月26日、志賀重昂が農学会幹事を辞したため、その後任として幹事となっていたが、さらに明治23年(1890)6月14日、農学会幹事長に選ばれた。横井幹事長時代の明治24年(1891)1月、農学会から農学会報号外として刊行されたのが、明治農政史上に名高い『興農論策』である。これは横井が中心となって農学会の意見を提言としてまとめたもので、その後の農政展開に多大な影響を及ぼした。
明治27年(1894)、横井の浪人時代が終わる。同年7月、帝国大学農科大学教授に就任、農学第一講座を担当した。農学第一講座では、農業経済学を講述し、兼ねて栽培汎論をも講義した。明治32年(1899)、農学博士の学位を授与され、また農業教育研究のため満一年間ドイツに留学を命ぜられた。さらに、明治35年(1902)、東京帝国大学農科大学附属農業教員養成所(のち東京教育大学農学部)主事に補され、明治44年(1911)には東京帝国大学評議員となった。東京帝国大学農科大学を停年退官し、農業教員養成所主事も退任したのは大正11年(1922)である。翌大正12年(1923)には、東京帝国大学名誉教授の称号を授けられている。
この間、横井は農政思想家として、多数の著書を公にしている。明治38年(1905)『第壹農業時論』、明治40年(1907)『小説 模範町村』、大正2年(1913)『都会と田舎』、大正5年(1916)『農閑出鱈目草』、昭和2年(1927)『小農に関する研究』等々、枚挙に遑がない。さらに、小農論の立場から、新聞や雑誌などのメディアにおいて、「農業党の急先鋒」として論陣を張った。これら論説等の一部は上述の著書等に収録されているが、未収録のものも多い。晩年の大正14年(1925)には、『横井博士全集』全十巻が刊行されるが、それは横井時敬の全業績の一部に過ぎない。

 

最大の遺産・東京農大

明治27年(1894)以降、横井時敬は、一貫して(東京)帝国大学農科大学教授という官学の教授として活動した。しかし、それ以上に世間が横井の社会的肩書きとして認知していたのは東京農業大学学長という肩書きであり、横井が何よりも心血を注いだ事業は東京農業大学の自立と拡張であった。横井自身の表現を借りれば、大塚窪町時代、一軒の「藁葺の掘立小屋」に過ぎなかった東京農学校、榎本武揚が廃校を決意していた東京農学校を、「長い歳月に於ける艱難辛苦」の末に大学令による財団法人東京農業大学へと育てたのは横井時敬に他ならない。それは横井の「畢生の事業」であった。東京農業大学は、来る平成23年(2011)に120周年を迎えようとしているが、この東京農大こそ、近代農学の開拓者・横井時敬が後世に残した最大の業績、最大の遺産の一つなのである。

 

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