東京農業大学

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教員コラム

無限に広がる匂いの世界

2008年1月1日

農学部バイオセラピー学科 教授増田 宏司

仮説「仔犬フェロモン」について

伴侶動物の行動を研究

フェロモン。誰もが聞いたことのある言葉であり、「あやしいイメージ」の代表格である。そんなあやしい世界に手を染めて8年になる。フェロモンに関わってきて分かったことは、「動物の世界ではごくごく微量のフェロモンが生体に劇的な行動生理学的反応を引き起こす」ことだ。

ヤギを例にすると、雄ヤギの頭部周辺の被毛が2〜3本あれば、雌ヤギに排卵促進作用を誘起させるのに十分な量になる。諸外国では「雌ヤギが妊娠したら、雄ヤギは山の向こうまで移動させる」という。それほどフェロモンは「微量」で効果を現し、しかも飛散しやすい低分子量の物質が多い可能性があるということだ。

そういった背景のもと、本稿では伴侶動物、特にイヌの見せる諸行動の中で、嗅覚について我々が特に興味を持って行っている現在進行中の研究内容について触れたいと思う。

 

ヒトは匂いも目で探す

我々ヒトは、何かの匂いを嗅ぐと、まず目で匂いの元を探す。何かの音を聞いても反射的に目で音源を探すだろう。ではイヌについてはどうか。これはヒトと違って、鼻を使って見事に匂い源を探し当てる。

サーペルらは、イヌの嗅覚は極めて敏感であり、他個体との情報伝達手段の中で非常に大きな役割を占めており、ヒトによる選択交配により、種によっては視覚的情報交換の使用能力を低下させ、その他の情報交換の手段、特に嗅覚信号にますます頼るようになることを示唆している(Serpell, 1995)。また、ヒトとイヌの嗅球(脳の嗅覚を司る部分)を比較してみると、イヌの嗅球はヒトのそれと比べて大きく発達していることから、その嗅覚の鋭さ、重要さをうかがい知ることができる。

 

ヒトと共感できる動物

動物たちが見せてくれる行動、その多種多様さには驚かずにはいられない。興味深い研究結果がある。アジリティーというイヌの競技会があるのをご存知だろうか? 簡単に言えば「イヌの障害物競技」であり、日本でも盛んに行われている。このアジリティーは、競技者であるイヌとそのハンドラー(飼い主)が、数種類の障害物を道順(障害物の順番)を間違うことなくクリアすることを条件とし、その時間を計測して優勝者を決めるというもので、イヌの訓練性能とハンドラーの腕が同時に試される競技である。

この競技の前後で、入賞者(ヒト)の血中アンドロゲン値とイヌのコルチゾル(ストレスホルモン)値は共に下降するが、入賞できなかったヒトの血中アンドロゲン値とイヌのコルチゾル値は共に上昇するという結果が認められた(Jones, 2006)。何が言いたいかというと、「イヌはヒトの様子をうかがい、ヒトの感情を読み取り、ヒトと共感できる動物である」ということで、このデータはまさにその証明である可能性を示すものである。ということだ。

 

匂いに攻撃抑制効果

仔犬には不思議な力がある。例えば、大型犬は決して成熟した小型犬を仔犬と勘違いしたりはしないし、小型犬も未成熟の大型犬を大人と勘違いすることはない。また、仔犬は犬同士のルールを破ったり、マナー違反をしたとしても、成熟犬からケガをするほど強く攻撃を受けることは殆どない。我々はこの現象を「仔犬特有の匂い物質(仔犬フェロモン)によってもたらされる安寧効果」であり、具体的にはこの匂い物質には攻撃抑制効果があるのではないか? と仮説立てている。

文献を検索してみても、仔犬の匂いに関する研究は皆無であった。研究がうまくいかず論文化されていないのか、それとも本当に未研究の段階なのかは解らないが、どうやら母犬乳腺由来の安寧フェロモン(dog appeasing pheromone, DAP)ほどは盛んに研究されていないらしい。

 

行動学実験

まずは前述の仔犬フェロモンによる行動学的変化を探るために、行動学実験をすることにした。行動学実験の大きな特徴は、「行動を観察する」ことも重要だが、「特定の行動を再現する」ことが求められることだ。とはいえ、仔犬フェロモンには攻撃抑制効果を期待しているため、2匹のイヌを用意し、1匹には仔犬の匂いを吹きつけ、攻撃行動の様子を…などというストレスフルな実験をするわけにはいかない。そこで、環境の一定した部屋にオープンフィールド(1.9m×1.9mの正方形用地)を作り、仔犬の被毛に対する成犬の反応を見てみることにした。

まずは、イヌの被毛を容器に入れ、匂いの浸透しにくい素材に容器を固定したのち、オープンフィールド内で3分間イヌの反応を観察した。すると注目するに値するいくつかの行動レパートリーを認めた。未成熟なデータであるため詳細は割愛するが、これらの諸行動はすなわち匂い嗅ぎ行動、ストレス反応、遊び行動に集約され、被毛の持ち主の性別や年齢によって緒反応の頻度は前後した。

 

期待する結果と今後の展開

フェロモンの定義は「体内で生成して体外に分泌後、同種の他の個体に一定の行動や発育の変化を促す生理活性物質」とされている。異種動物に対しても効果を発揮する、というデータが出始めてきたことを受け、昨今この定義を見直す動きがあるようだが、我々はまず、「行動の変化」を確実に捉え、同時に生理的変化を定義しなければならない。すなわち仔犬が「仔犬フェロモンを産生、放出している」ことを科学的に証明することが第一であるということで、それができて初めて、仔犬フェロモン分子の分析化学的探索が可能になると考えている。

とはいえ、実験に使用した被毛の一部は、ガスクロマトグラフ/マススペクトロメトリ(GC/MS)にて質量分析を行い、被毛の匂い成分のプロファイルを実験の度にプールしている。分析状況からすると、どうやら非常に揮発性の高い物質が多く、フェロモン分子をクロマトグラフ上で確認するには、蒸留操作などの分析前処理が非常に重要になってくると予想している。

私は、イヌとは「ヒトに対して最も気を遣う動物」だと思っている。イヌそのものを知ろうとしても、そこには必ずイヌを取り巻く環境特有の因子(ヒトも含まれる)が実験結果に関わってきて、逆にその複雑さこそが混沌を好む行動学研究者向きで、標準誤差の大きさに一喜一憂している。もし今回注目した仔犬フェロモンの存在が認められ、仔犬フェロモン分子が見つかれば、イヌ同士の喧嘩を抑制したり、落ち着かないイヌの気分を落ち着かせることを見据えた仔犬フェロモン製剤の臨床応用が可能になると考えている。たとえ大きな個体差が臨床応用実験の邪魔をしたとしても、しつけや問題行動の治療を専門としている獣医師として、何より愛犬家として、研究結果を楽しみにしている。

 

自らを信じて…

先日、人と動物の関係に関する国際会議(IAHAIO)が東京、京王プラザホテルで開催された。我々行動学研究者にとっては、神様のような存在の諸先生方が世界中から来日しておられた。その中でも、敬愛するハート先生(カリフォルニア大学デービス校元教授)がおっしゃっていた言葉“trust it !!”が忘れられない。

先生は私の師匠の師匠という存在で、私は先生の孫弟子、と勝手に解釈しているが、「行動データを学会で発表しても見向きもされなかった15年前に比べて、今はこんなにたくさんの同士が世界中から集まっているじゃないか。信じて研究に没頭しなさい」と人前でなければ号泣してしまいそうな内容の発表をされていた。まさに“trust it !!”である。

私は、「行動とは生体の見せる最終表現型」であると考えている。体内で何らかの変化が起きていても、行動の変化には結びつかない場合も多い。自分を信じて「行動の再現」に力を注いでいこうと思っている。

 

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