東京農業大学

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教員コラム

マイクロエンドフェノタイプによる精神病態学の創出 <下>

2013年4月12日

応用生物科学部バイオサイエンス学科 教授 喜田 聡

新学術領域の取り組み

脳は神経細胞(ニューロン)を中心に構成されており、ニューロン同士はシナプスで結ばれており、シナプスを介して情報を伝達する。ニューロンは、このシナプスを介して、多くのニューロンから情報を受け取り、逆に他の多くのニューロンに情報を伝達している。その結果、ニューロンによって構成される千差万別のルートが存在する回路(神経回路)が作られており、この神経回路の働きにより、我々は日々の精神活動を営んでいる。
前回に記したように、現在、精神疾患における一番重要な問題点は、病態が目に見えていないことである。古くから、多くの試みが行われてきたものの、精神疾患にはアルツハイマー病の脳における老人斑のような、容易に観察できる特徴は見つかっていない。また、環境要因が影響することから、遺伝子の配列を調べるだけで、病態を予測することは困難である。しかし、精神疾患では脳に異常が起こっていることは明らかである。以上の点から、消去法により、精神疾患の病態は容易に目で観察できないレベルに潜んでいることが予測される。そこで、この新学術領域では、精神疾患の謎を解き明かす病態は、目に見えないレベルの神経細胞の変質、シナプス伝達の不具合、あるいは、細胞内の分子動態の異常などにあると考え、神経回路・神経細胞・分子動態レベルの目に見えない精神疾患の病態のことを「精神疾患のマイクロエンドフェノタイプ」と名付けた。この学術領域では、このようなマイクロエンドフェノタイプを見つけ出すことを共通目標としている。
顕微鏡でただ単に組織を眺めても見つからないレベルの小さな病態を発見するには、見えないものを見えるようにする細工が必要である。そのためには、基礎研究の叡智を結集してこの難題に挑戦する必要がある。そこで、さまざまな基礎研究者の集合体を結成するために、この新学術領域が立ち上がった。この新学術領域には、筆者以外では、吉川武男先生(理化学研究所)、廣瀬謙造先生(東京大学)、林(高木)朗子先生(東京大学)、加藤忠史先生(理化学研究所)、橋本謙二先生(千葉大学)、富田博秋先生(東北大学)、那波宏之先生(新潟大学)、岩本和也先生(東京大学)が計画研究代表者として参加している。この中には、医師免許を持った研究者も含まれるが、全員が基礎研究に従事する研究者である。すなわち、この領域は、精神疾患に対する造詣が深いものの、基礎研究を中心に活動している研究者の集合体である。
この新学術領域では、マイクロエンドフェノタイプを同定し、これを調べるために、最新技術を開発しながら、研究を進める予定である。まず、第一に、精神疾患の生体試料の制限を補うために、昨年、山中伸弥先生のノーベル賞受賞で話題となったiPS細胞を利用する。具体的には、精神疾患患者の体細胞からiPS細胞を作製し、この細胞を駆使して研究を展開する。細胞培養する施設さえあれば、このiPS細胞を利用してどこでも精神疾患研究を行うことが可能となる。さらに、この領域では、iPS細胞をうまく利用することで、次世代型の精神疾患モデルマウスを作製することも計画されている。
また、光を使って神経細胞をコントロールする技術、生きた細胞の中の小さな分子群の構造を検出する超分子イメージングの技術なども開発される予定である。以上のような最新かつ最先端技術を活用して、マイクロエンドフェノタイプの謎に迫る予定である。このような技術の開発は、精神疾患研究のみならず、多くの基礎研究に応用され、国内の研究に大きな影響を及ぼすことが期待されている。
この新学術領域では、ヒト対象の研究と動物対象の研究がミックスされており、ヒト対象の研究の制限と、動物対象の研究の限界とを、補い合いながら研究を発展させる体制となっている。例えば、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に関しては、マウスを利用する動物研究は東京農大で行われ、一方、ヒトPTSD患者を対象とした基礎研究は東北大学において、東日本大震災の被災者も交えて展開される。このように、ヒトと動物を対象とする研究が連携しつつ、PTSDの解決策が模索される予定である。
さらに、基礎研究者の層を厚くするために、昨秋募集した公募研究の申請を通して、これまで精神疾患研究に従事してこなかった基礎研究者のリクルートが行われた。メディアや、公開説明会などを通して、領域の目的が説明され、いろいろな分野の基礎研究者に広く申請が求められた。このように、基礎研究者をリクルートする上で、医師免許を持たず、しかも、農学系に所属する研究者が精神疾患研究の代表となったことの効果は大きかったようである。本領域の立ち上げがきっかけとなって、生活習慣病やガン研究のように、医学系から農学系に至る幅広い研究領域が一丸となって、多様な視点からの研究が展開されることが期待される。

 

農学系からのアプローチ

では、精神疾患研究に対して、農学系の特色を生かすのであれば、どのように貢献できるであろうか。1990年代に、先進国を中心にして魚の消費量とうつ病の患者数の関係性が調査された。その結果、魚の消費が多い国ほど、うつ病の患者が少ないという統計結果が得られた。その後の疫学的調査から、不飽和脂肪酸の摂取が重要であったことが示唆されている。すなわち、不飽和脂肪酸をよく摂取するとうつ病にかかりにくくなるということになる。さらに、筆者が参加した科学技術振興事業団のPTSD研究プロジェクトにおいて、国立病院機構災害医療センターの松岡豊先生らにより、交通事故にあった後に不飽和脂肪酸のカプセルを投与されると、重傷者では、PTSD発症の割合が少なくなることも明らかになりつつある。
以上の知見は、食生活の改善により、精神疾患の発症率も抑制できること、さらに、食品・栄養の研究業界においても精神疾患を研究対象とするビジネスチャンスが眠っていることを意味している。しかし、現在、農学系においては、この手の研究は皆無といってよい程なされていない。今後は、食品や栄養素と脳機能の関係を明らかにする「脳栄養学・精神栄養学」という新しい学問領域の発展が必要不可欠となってこよう。さらには、精神疾患に特化するまでもなく、食と脳の関係性を明らかにすることで、さまざまな脳機能疾患に将来的に貢献できるものと考えられる。

 

精神疾患が抱える社会的問題

精神疾患のメカニズムが不明であることも大きく影響していると考えられるが、社会的にも「精神疾患=脳に異常が起こった病気」との理解はまだまだ浸透していない。最近、元巨人軍投手の桑田真澄さんが「水を飲むとばてるといわれ、部活動中は水を飲むことが禁止されており、こっそり便器の水を飲んだことがある」とコメントしていた。スポーツ医学が浸透していなかった数十年前には、今では全く考えられないことも普通に行われていた。この状況は、現在の精神疾患にも当てはまる。痛みや苦しみが見えにくいため、脳の中に異常が起こっている病気であるにもかかわらず、「説得すれば何とかなる」、「こころの持ち方次第でどうとでもなる」と考え、精神疾患患者に安易に接するケースも多く、教育の現場でもこの手の誤解が多い。理性では理解していても、心と体が言うことを聞かない病気であるが故に、社会問題となっているわけである。正しい認識が必要である。
以上のような精神疾患に対する社会的な理解不足を解消することも、この新学術領域の使命となっており、そのためにさまざまなアウトリーチ活動も企画されている。この領域が採択された時のヒアリングでは、大勢の審査員に向かって、「精神疾患は気合で治ると誤解している人が多いのが現実であり、この社会的現状を変えなければならない」と訴えた。研究活動を通して、次世代の研究者を育成し、さらに、精神疾患に対する社会的理解を浸透させて、10年後、20年後には、現在を振り返り、「あの頃は何も知らなかった」と懐かしむような社会の変革を行うことがこの新学術領域の真のねらいである。

(領域ホームページ:http://microend.umin.ne.jp/index.html)


 

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