東京農業大学

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教員コラム

マイクロエンドフェノタイプによる精神病態学の創出 <上>

2013年3月5日

応用生物科学部バイオサイエンス学科 教授 喜田 聡

精神疾患と言われると、一般的には、医学系の研究対象との印象を受ける。このシリーズでは、なぜ今、精神疾患の基礎研究が推進される必要があるのか、平成24年度文部科学省科学研究費補助金の新学術領域「マイクロエンドフェノタイプによる精神病態学の創出」には何が期待されており、どのような研究が行われるのか、さらに、農学系の視点からどのように精神疾患研究に貢献できるかを紹介する。

 

精神疾患とは

精神疾患がどのような病気であるのかは意外に知られていない。しかし、精神疾患は、2011年に国内五大疾患の一つと認定されたメジャーな病気である。精神疾患から、うつ病をイメージする人は多いであろうが、うつ病の生涯有病率(生涯の中で発症する人の割合)は約1割である。また、震災や事故などの恐怖体験が原因となって発症する心的外傷後ストレス障害(PTSD)の生涯有病率も約1割、かつては、精神分裂病と呼ばれた統合失調症の生涯有病率は約1%である。すなわち、これら三つの精神疾患の生涯有病率を合計すると約2割、実に国民の5人に1人が一生に一度は精神疾患を経験する計算となる。
自閉症や知的障害などの発達障害も広義には精神疾患と捉えられる場合もある。しかし、発達障害と精神疾患ではその発症のメカニズムが大きく異なっている。発達障害は遺伝子変異(遺伝要因)、すなわち、個人の遺伝子配列を原因とする疾患である。したがって、ほとんどの場合、発症から逃れられる可能性は少ない。一方、精神疾患の発症は遺伝的要因によってのみ決定されるわけではなく、環境的要因が強く影響する。例えば、うつ病には社会的なストレスが大きく影響し、PTSDは偶然に遭遇する恐怖体験によって発症する。したがって、精神疾患は、遺伝要因と環境要因がそろうこと(複合的要因)によって発症する病気である。遺伝要因は遺伝子を詳細に調べれば答えが得られる生物学的な課題であるが、社会的ストレスのような環境要因はわかりやすい数値で表すことができない難題である。生活習慣病も食生活といった環境要因に影響されるが、精神疾患の場合、言葉にすら言い表せない環境要因が特に強く影響する。この点が精神疾患の解明を困難にしている原因である。

 

目に見えない病気

我々の身の回りのほとんどの疾患は、その発症メカニズムが不明であったり、治療方法が開発されていなかったとしても、発症して体に起こる変化、すなわち、病態は明らかになっている。例えば、がんでは悪性腫瘍ができる、糖尿病では血糖値が高くなったり、インスリンができなくなるなどである。また、精神疾患と同じ脳の病気であるものの、神経疾患と分類されるアルツハイマー病では脳の萎縮や老人斑が観察され、パーキンソン病ではドーパミンを産生する神経細胞が少なくなるなど、病態が明確になっている。そのため、このような病態が生じるメカニズムを解明することが病気の解明と治療法開発に必須と考えられ、多くの基礎研究が進んでいる。一方、精神疾患では病態が不明である。脳機能に異常が生じていることは明らかであるものの、うつ病、PTSD、統合失調症では、脳内にどのような異常が存在しているのかわかっていない。そのため、精神疾患の病状は精神科医による面接によって診断され、血液検査も、脳画像診断も行われない。このような現状も、精神疾患を理解しにくくしている要因である。
精神疾患の増加は、大学のような教育機関においても他人事ではない問題である。引きこもりや登校できないなど、精神疾患に近い若者が多くなっているものの、症状をわかりやすく表現することができないため、どのように対応してよいかの答えが見えない状況が続いている。打撲、捻挫、骨折のように、簡単に病状の度合いがイメージできるのであれば対応は容易であるが、目に見えない病気であるが故に解決の糸口が見えていない。
うつ病の症状として最も重篤であるのは自殺であり、国内の自殺者は年間約3万人である。社会で活躍すべき人材がうつ病で失われていることは大きな社会的損失である。このような現状から鑑みても、精神疾患のメカニズムが解明され、その治療方法の開発が急務となっている。

 

精神疾患研究の難しさ

がんや糖尿病などの他の五大疾患に比較すると精神疾患の解明は大きく遅れている。先に記したように、環境要因が発症原因となっていること、また、精神疾患の病態が目に見えないことは、解明を遅らせている主要な原因である。これ以外にもさまざまな原因が存在する。まず、精神疾患の生体試料の入手が困難な点である。例えば、がん研究では、研究者は簡単な設備があれば、がん細胞を容易に入手し、研究を行うことができる。一方、精神疾患患者の脳から神経細胞を取り出して、永続的に培養し解析することはほとんど不可能に近い。精神疾患の唯一とも言えるヒトの試料は死後脳である。ブレインバンク等の整備が進められているものの、技術的にも扱いが難しく、解析量も制限を受ける。次に、動物を用いたアプローチにも限界がある点である。現在、さまざまな遺伝子操作マウスが開発され、「うつ病モデル」や「統合失調症モデル」と呼ばれるマウスも続々と発表されている。しかし、言葉を発しない動物では、精神疾患をどこまで反映したモデルであるかの見極めが非常に難しい。その結果として、動物を主体とする研究と、ヒトを対象とする研究が別々に進んでいるかのような状況が続いている。さらに、精神疾患研究に携わる研究者数が特に少ない点である。現在、精神疾患研究は医学系研究機関の一部が中心となって行われている程度である。一方、農学系であろうと、がんや糖尿病(生活習慣病)を対象として、精神疾患以外の五大疾患を対象とする研究に携わる研究者は多い。これは、既に説明したように、精神疾患が基礎研究の対象になりにくい背景を原因としている。その結果として、我々にとって非常に身近な病気でありながらも、アフター5でしか基礎研究に従事できない精神科医が中心となって基礎研究を進めざるを得ない惨状が続いている。

 

新学術領域における取り組み

ここまでに記したような、問題を踏まえ、精神疾患の基礎研究の裾野を広げ、国内の精神疾患研究の土台を構築することを目標にして誕生したのがこの新学術領域である。次回では、この取り組みに関して説明する。


 

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