東京農業大学

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教員コラム

スゲ属植物の遺伝的多様性からみた湿原生態系の保全

2012年8月1日

生物産業学部生物生産学科 准教授 中村 隆俊

東京農大「先端研究プロジェクト」報告(下)
プロジェクト名:極東亜寒帯地域における野生生物の遺伝的多様性評価とその保全

湿原タイプと温度環境に着目

湿原は、冷温帯から亜寒帯の植生を特徴づける重要な生態系のひとつとして認識されているが、人間活動の拡大に伴い湿原面積は急速に縮小している。従って、湿原植物群落は各地で孤立・分断化している可能性があり、個体群レベルでの遺伝的交流の程度や遺伝的多様性の現状把握が急務となっている。
北半球の湿原は、植生景観の違いによって「フェン」と「ボッグ」に大別される。フェンは、湿性遷移の初期段階に出現し、大型のスゲやヨシによって優占される。一方ボッグは、湿性遷移の後期段階に出現し、ミズゴケ類や中〜小型のスゲによって優占される。こうした遷移段階の違いから、フェンは水際や過湿土壌域において連続的な発生・分布を示すことが多く、ボッグは発達したフェンの一部から遷移するため孤立発生することが多い。従って、湿原植物種群の集団遺伝構造や遺伝的多様性は、適応する湿原タイプによって本来大きく異なる構造を示す可能性がある。また、北日本における湿原の多くは、極東亜寒帯を主な分布域とする北方系種群によって広く優占される。それらの種群にとって、北日本はほぼ分布の南限にあたり、生育期の高温が強い選択圧として作用するため、各個体群の遺伝的多様性は立地の気温環境と何らかの関連を示す可能性がある。こうした背景を踏まえ、東京農大先端研究プロジェクトとして、フェンとボッグを代表する優占種について北日本各地における個体群の遺伝的多様性を調べ、湿原タイプおよび温度環境との関係について比較・解析を行った。以下にそのアプローチと成果に関する概要を紹介する。

 

対象種はヤラメスゲとホロムイスゲ

対象種は、周極地域のフェンに広く分布する大型のスゲであるヤラメスゲと、極東亜寒帯のボッグに広く分布する中型のホロムイスゲとした(図1)。カヤツリグサ科スゲ属の多年草である両種は、ともに東北北部から北海道南部を低地分布の南限としており、いずれも風媒花で種子がとても小さく、風や水による花粉や種子の移動能力はほぼ同程度であるという共通点をもつ。
ヤラメスゲは、最も寒冷な道東落石湿原(4-9月平均気温9.9℃)から最も温暖な東北高瀬川湿原(15.4℃)に至る計9カ所の個体群を対象とし、計440個体を採取した(図2)。ホロムイスゲは、最も寒冷な道東落石湿原(9.9℃)から最も温暖な道央美唄湿原(14.4℃)までの9カ所の個体群を対象とし、計410個体を採取した(図2)。採取したサンプルから核DNAを抽出し、マイクロサテライトマーカーを用いてフラグメント解析を行い、そのデータをもとに両種の遺伝的な特性について調べた。遺伝的多様性を把握するための指標として、ヘテロ接合度の期待値(He)・観測値(Ho)および対立遺伝子の豊富さ(AR)を求め、さらに、集団の遺伝的構造を把握するため、個体群全体の近交係数(Fit)、各個体群間における近交係数(Fst)、個体群内の近交係数(Fis)を求めた。

 

フェンとボッグの遺伝的構造

遺伝的多様性の指標であるヘテロ接合度の観察値(Ho)と期待値(He)、および対立遺伝子の豊富さ(AR)は、今回調査を行った個体群全体ではヤラメスゲ・ホロムイスゲとも良好な値が示された。従って、湿原面積が急速に縮小している現況においても、北日本のフェンやボッグを構成する両種の遺伝的多様性は、まだ十分に維持されていることが明らかとなった。さらに、個体群全体でみた個体間の近親交配の程度を表すFitは、両種とも低い値を示した。つまり、花粉の供給や種子の移動等による遺伝的な交流の程度についても、北日本全体でみると両種ともに良好な状態(=近親交配レベルが低い)であることが明らかとなった。
ところが、個体群間における近親交配の程度をあらわすFstは、ヤラメスゲよりもホロムイスゲで大幅に高く、フェン優占種であるヤラメスゲの方が個体群間の遺伝的交流が盛んであることが示された。対照的に、個体群内の近親交配の程度をあらわすFisは、ヤラメスゲよりもホロムイスゲで明らかに低く、ボッグ優占種であるホロムイスゲの方が個体群内の近親交配レベルが低い傾向にあった。このことから、フェン優占種のヤラメスゲでは、個体群間の盛んな遺伝的交流が北日本全体でみた近親交配レベルを低く維持しており、一方、ボッグ優占種のホロムイスゲでは、個体群内の円滑な遺伝的交流が全体の近親交配レベルを低く保つことに貢献していることが明らかとなった。つまり、北日本全体でみると両種はいずれも良好な遺伝的多様性・遺伝的交流を維持しているが、その維持メカニズムは適応する湿原のタイプで大きく異なることが示唆された。そして、個体群間の交流が盛んなヤラメスゲのこうした遺伝的特性は、フェン特有の連続的分布・発達様式を反映していると考えられ、個体群間の交流が少ないホロムイスゲの特性は、ボッグ特有の孤立的分布・発達様式を反映したものであると考えられた。
これらの知見から、フェン適応種に対する遺伝的多様性の保全には、個体群分布の地理的連続性を保ち、個体群間交流を維持することがより効果的であることが示唆された。同時に、個体群内交流に依存するボッグ適応種に対しては、個体群サイズの縮小による近親交配レベル上昇を防ぐため、各個体群のサイズを大きく保つことがより効果的であることが示唆された。

 

温度環境と遺伝的多様性

各個体群における対立遺伝子の豊富さARは、両種共に生育地の4-9月平均気温と強い負の相関関係を示した(図3)。つまり、個体群の遺伝的多様性は、気温が高い立地ほど低下することが明らかとなった。こうした遺伝的多様性のパターンは、北方系種群における南限域の個体群特有のものであると考えられ、間氷期等の気候温暖化に伴う個体群の縮小や、その際のボトルネック効果などを強く反映したものであると推察された。従って、地球温暖化による急激な温度上昇が、北方系種群の集団遺伝学的な挙動にどう影響するのか、長期的な視点で今後注意深く見守る必要があるだろう。
本研究により、北方系の湿原植物は、フェンとボッグの異なった分布・発達様式を反映した遺伝的多様性維持メカニズムを持ち、気温環境に応じた遺伝的多様性の変化を示すことが明らかとなった。これらの成果は、北方系湿原植物種群における遺伝的多様性の戦略的な保全を考える上で、重要な知見を提供するものであると考えられる。

 

図1 ヤラメスゲ(左)とホロムイスゲ(右)
図2 スゲの採取調査を行った北日本の湿原
図3 対立遺伝子の豊富さ(AR)と気温環境



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