東京農業大学

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教員コラム

記憶力を良くする分子メカニズム

2011年9月14日

応用生物科学部バイオサイエンス学科 教授 喜田 聡

スマートマウス誕生とその舞台裏

応用生物科学部バイオサイエンス学科動物分子生物学研究室では、遺伝子操作を施すことによって、記憶能力が著しく高い「スマートマウス」を作製し、この研究成果を「ジャーナル・オブ・ニューロサイエンス」に発表した。この成果に基づいて、操作した遺伝子を活性化する薬剤が開発されれば、加齢後の記憶力低下も含め、様々な記憶障害を解決する道が開かれることが予想される。本稿では、舞台裏も含めて、この研究成果を説明する。

 

記憶力を決定する遺伝子

記憶力を向上させることは人類にとって夢の一つである。我々は、この可能性を追求するため、記憶するメカニズムを遺伝子レベルで解析している。記憶力を決定する遺伝子があるならば、その遺伝子の働きを弱めれば記憶力が悪くなり、逆に、その働きを高めれば記憶力が良くなるだろうと考えている。この仮説を検討するために行った研究の成果が今回の発表論文である。
私は1996年に米国コールドスプリングハーバー研究所アルシーノ・シルバ(Alcino J. Silva)教授(現UCLA)の研究室に留学し、記憶に対する転写因子CREBの役割を研究し始めた。記憶が長期間続く「長期記憶」となるには、脳内で遺伝子発現が起こり、脳のニューロン(神経細胞)が変化し、記憶を長期間保持できるようになると考えられている。この反応は「記憶固定化」と呼ばれており、文字通り、脳内で記憶を固定して保存するといった意味である。当時、この記憶固定化の主役がCREBであると考えられ、世界的に注目されていた。私がシルバ教授の研究室で行ったのは、CREB遺伝子の機能を弱めた遺伝子操作マウスの作製である。東京農大に赴任してからも、UCLAと農大とを行き来して共同研究を進め、CREB遺伝子の働きを弱めると記憶できなくなること、すなわち、CREBが記憶固定化に必須であることを明らかにした。
CREBが本当に記憶するために必要であるかを解明するため、次の一手として、農大において、CREBの働きを強めた遺伝子操作マウスの作製に着手した。先に記したように、CREBが記憶力を決定づけているのであれば、脳内のCREBの働きを強めれば、記憶力がよくなるであろうといったアイディアである。実際には、DNAの塩基配列に変異を加えて(塩基配列を変え)、働きを高めた活性化型CREBを脳内に多く持つ遺伝子操作マウスを計4種類作製した。様々な記憶テストを行ったところ、これらの遺伝子操作マウスは、普通のマウス(野生型マウス)よりも、はるかに優れた記憶力を示すことが明らかとなった。例えば、普通のマウスはある場所を記憶しても、1ヶ月経過すると、別の場所と見分けがつかなくなるが、遺伝子操作マウスは記憶直後と同じように見分けることができていた。さらに、記憶形成の細胞モデルと考えられている海馬ニューロンの長期増強(Long-term potentiation;LTP)の向上も観察された。以上のような結果から、この遺伝子操作マウスは記憶能力が著しく向上したスマートマウスであると結論した。

 

子マウスもスマートに

もう一点、このスマートマウスの優れている点を強調しておく。このマウスは、遺伝子操作によって、記憶能力を良くする遺伝子を持つことになったわけである。従って、このマウスから、記憶力を良くする遺伝子を受け継いだ子供のマウスもスマートマウスとなる。つまり、記憶力の良さは親から子へと受け継がれる。
さらに、予想外の結果として、この遺伝子操作マウスでは、30分〜2時間程度の短期記憶も優れていた。詳細な解析から、この短期記憶の向上は、CREBによって発現が誘導される神経栄養因子BDNFの発現量が高まっていたためであることを突き止めた。また、CREBとBDNFとの相乗効果により、記憶能力がさらに高まることも判明した。
本研究から、記憶力を良くする分子メカニズムの実体(CREB-BDNF経路)が明らかになった。このCREB-BDNF情報伝達経路を標的とした薬剤が開発されれば、認知症をはじめとする記憶障害を伴う疾患の治療に大きく貢献するものと考えられる。


ライバルはノーベル賞研究者

次に、この研究に関する舞台裏も紹介したい。
記憶研究において、CREBを題材とした研究の競合は激しい。1990年代初頭からマウス、ハエ、アメフラシを使ったCREBに関する記憶研究が行われ、3つのグループがしのぎを削ってきた。私は、先に記したように、1996年にマウスの研究していたシルバ教授のグループに加わった。一方、アメフラシを使った研究は、2000年にノーベル賞を授与されたコロンビア大学エリック・カンデル(Eric Kandel)教授によって行われてきた。
実際のところ、我々が今回発表した「スマートマウス」の開発に着手した2000年頃には、カンデル教授の研究室では、我々とは異なった方法を用いて、CREBの働きを活性化させたマウスが作られていたようである。そして、我々に先行して、論文が発表された。しかし、幸いにも、この論文では、CREBの活性化によって、LTPが促進されたことが示されただけであり、肝心な記憶能力に関するデータは全く発表されなかった。これ以降は、カンデル教授のグループから、我々と類似した結果が発表されてしまうことを危惧しながら、研究を進めていたのが実情である。似たようなデータが発表されてしまえば、我々のデータは二束三文の価値となってしまう恐れがあった。
内々の情報やカンデル教授らの研究結果から推察すると、カンデル・グループの遺伝子操作マウスには、結局、記憶力の向上は観察されなかったようである。CREBを強く活性化させ過ぎたマウスを作ってしまったため、このマウスでは、むしろ、記憶能力は悪くなってしまったらしい。遺伝子操作マウスを作製する上で、CREBをどこまで活性化させるかを調節することは難しいが、我々は、CREBを「程よく」活性化させることによって、スマートマウスの開発に成功したようである。

 

ゴッドハンドの農大生たち

このプロジェクトは、動物分子生物学研究室において、2000年に開始された。当時、遠藤健吾君と鈴木章円君(両者は農芸化学専攻)が遺伝子操作マウスを作製した。その後、鈴木章円君、夢川琢也君(バイオサイエンス専攻)、福島穂高君(バイオサイエンス専攻)がマウスの解析を詳細に行い、この3名が今回の論文の第一著者(first author)となった。この3名の実験技量は超一流であり、まさに、ゴッドハンドの持ち主達であった。いくつもの困難な実験に挑戦してくれた。他にも、動物分子生物学研究室に所属した多くの学生達がこのプロジェクトに貢献した。今回発表した論文は、発表するまでに10年要し、さらに、その間に蓄積したデータを全て掲載したため、17ページの大論文となった。通常の論文で言えば、3、4報分のボリュームである。このプロジェクトは、カンデル博士と競合状態であったこともあり、結果を細切れにして小さな論文をいくつも発表することも出来た。しかし、初志貫徹し、インパクトのある論文として発表するに至ったのは、ここで紹介した農大生の努力、勤勉性、そして、技術力の高さの賜物である。この論文完成までの長い道のりの中で、研究室の研究力も大幅にアップし、今や、マウスを用いた記憶力解析技術の高さではワールドクラスであり、日本屈指である。

 

神経学界の若きホープ

第一著者である鈴木君は、大学院修了後、3年あまり博士研究員として本研究室で研究を続けた後、米国留学し、留学先でもセル(Cell)誌に論文を発表した。このような優秀さが買われ、本年7月1日に富山大学医学部助教として日本に復帰した。鈴木君の同期の内田周作君(農芸化学専攻)は山口大学医学部助教として活躍しており、ニューロン(Neuron)誌やPNAS誌に論文を発表している。今や、両君は、日本神経科学界における農大出身のホープである。また、福島君はジャーナル・オブ・ニューロンサイエンスに第一著者として論文を発表するのは2度目である(この成果は2008年11月号の実学ジャーナルに紹介された)。福島君は、今も博士研究員として本研究室に在籍中であり、先輩達に負けることなく、今後も重要な論文を発表することになるだろう。
一昔前まで、まことしやかに、医学部以外では(農学部では)、脳研究は難しすぎてできないと言われていた。しかし、この常識は、農大生の頑張りによって、覆されつつある。

 

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