東京農業大学

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教員コラム

風評被害を防ぐために

2011年5月19日

応用生物科学部 教授 北村 行孝

専門家の役割と科学リテラシー

正体が必ずしも明らかでない危険に対して、個々人の安全を守り、無用の社会的混乱を招かないための情報流通のあり方はいかにあるべきか。こうしたテーマを「リスクコミュニケーション」といい、食の安全や感染症の流行、災害などを想定して、関係者の努力が続けられてきた。大津波に加えて福島第一原子力発電所の事故まで招いた東日本大震災ほど、日本社会のリスクコミュニケーション力が試された事例はなかったのではないか。
今回の大震災は関東大震災(1923年、犠牲者10万人以上)以来の惨禍といわれるが、情報を巡る状況には大差がある。電話や新聞の普及度も低く、ラジオ放送さえ始まっていなかった88年前の大正時代と違って、今や新聞、テレビ、ラジオなどのマスメディアに加えて携帯電話、インターネットなど電子情報全盛の時代である。


政府のリスク管理に不信感

情報基盤の充実もあって今回、口コミの流言飛語が飛び交った関東大震災のような騒乱状態は起きなかった。未曽有の災害に直面して犯罪が横行したりパニックを起こしたりしない日本の社会を、海外メディアが称賛したりもした。
だが、リスクコミュニケーションがうまく機能したといえるだろうか。放射性物質に汚染されていなくても福島産というだけで、野菜や海産物が売れなくなり、海外では日本産の食品ばかりか、衣料品や工業製品などの輸入自粛すら起きている。日本への渡航自粛のほか、本社機能を東京から関西に移す外資系企業が現れもした。広範でかつてない「風評被害」を招いた要因を冷静に受け止める必要がある。
リスクを評価、管理する立場の政府の対応は多くの課題を残した。だれにとっても未経験の事態に当初の混乱はやむを得ないにしても、不安の拡大を恐れるあまり、政府の情報開示が不十分で、かつ遅れた。放射性物質の拡散予測を、日本からの元データをもとに海外の研究機関が公開しているにもかかわらず、足元の日本国内では批判が高まるまで秘密にした対応が象徴的である。
リスクをめぐって社会不安が広がる最大の要因として、情報不足やリスク管理者(今回の場合は政府)への不信感があげられる。都合の悪いことを隠しているのではないかという不信が疑心暗鬼につながり、過剰な反応の連鎖を招いてしまう。

 

二次的な加害者にならない

リスクコミュニケーションの主役は政府ばかりではない。その周辺の専門家が眼前のリスクをいかに解説するか。最悪の事態として何が考えられ、現状はその事態からどれほど離れているのかを誠実に語り、リスクに対する「相場観」を醸成することも、政府の役割に劣らず重要である。こうした役割が、マスメディアに課せられていることも忘れるわけにはいかない。
このような観点から、原子力の専門家が期待された役割を十分に果たしたかといえば、疑問が多い。現在進行中で、精確なデータもそろってない段階で何らかの解説をし、意見を表明するには、日ごろの研究活動とはまた別の能力と覚悟が求められる。だが、国家的な緊急事態において、こうした役割を果たしうるのは専門家以外にない。今回のような災害に限らず、多様な局面でリスクコミュニケーションを担える行政官、専門家、ジャーナリストらが質量ともに求められている。
「風評被害」は災害そのものに次ぐ第二の被害だが、リスク情報の受け手である一般市民がその行動次第で加害者になるということでもある。リスクの対象に対する初歩的な科学常識(科学リテラシー)が多くの人々に備わっていれば、風評被害は相当に軽減される。
研究活動を基礎にして、震災対応や復興活動に貢献することが大学にとって重要な使命だが、それだけではない。科学リテラシーのある人材──災害において二次的な加害者にならない学生を数多く社会に送り出すこともまた、重要な責務であろう。自戒をこめて、そうした思いを強くしている。

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