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教員コラム

東京農大「先端研究プロジェクト」報告(下) PTSDの新規治療方法開発へ

2010年10月15日

東京農大「先端研究プロジェクト」報告(下)応用生物科学部バイオサイエンス学科 教授 喜田 聡

「一時間ほど前、チーズとハムを買いに行こうとホテルの向かいのスーパーマーケットに行ったが、ドアを開けようとした瞬間に奇妙な不安に襲われた。そう言えば、昨年九月十一日、このマーケットに入ろうとしたときに携帯が鳴って、同時多発テロを知ったのだった。そのときの衝撃が意識下に刷り込まれていたのだろう。具体的な「場所」によって喚起されるイメージは強い。チーズとハムを買う間も動悸がなかなか収まらなかった。」 (村上龍著『熱狂、幻滅そして希望 2002FIFA World Cup レポート フィジカル・インテンシティV』から)

 

村上龍氏の「恐怖記憶」

冒頭に紹介したのは、中田英寿選手の試合観戦のため、村上龍氏がイタリアに滞在した時のエピソードである。記憶と言われると、暗記をイメージしがちであるが、我々は日々の生活の中で無意識のうちに実に多くのことを記憶している。その際の記憶は、我々が五感で感じたことと感情の動きがセットになっている(心理学的に言えばエピソード記憶)。簡単に言えば、記憶とは、情景のみならず、匂いや温度とその時の感情までをセットにした超高性能ビデオ映像のようなものである。  さらに、記憶の強さ、つまり、脳に長く残すか否かはその際の喜怒哀楽の大きさによって決まる。このタイプの記憶の中で、恐怖を感じた出来事、つまり、恐怖体験の記憶は「恐怖記憶」と呼ばれている。冒頭のエピソードは恐怖記憶の例であり、同時多発テロのニュースを聞いた恐怖体験が記憶され、スーパーマーケットを再訪したときに脳が勝手に思い出したというわけである。

 

PTSDとは

PTSD(post traumatic stress disorder;心的外傷後ストレス障害)という精神疾患が世の中で認知され始めたのは、阪神淡路大震災からである。PTSDとは強い恐怖体験、つまり、恐怖記憶が原因となった病気である。恐怖体験後、恐怖記憶が何度も思い出され、強い恐怖を感じるために、鬱病、不安障害などの精神障害が併発する。PTSDは大震災によってのみ発症するわけではなく、交通事故やレイプなども原因となるため有病率は高く、日本でも約1割と言われている。しかし、PTSDの有効な薬理療法は開発されていない。

 

恐怖記憶制御メカニズム

恐怖記憶形成は本来危険回避のための動物の本能的な能力である。恐怖記憶を持っていることで、危険に直面した場所には近づかないなどの防御行動を取ることが可能になる。恐怖記憶を形成することは「恐怖記憶固定化」と呼ばれており、この反応を経ることで脳内に安定な記憶が貯蔵される。  ここまでは恐怖記憶の形成に関して説明したが、龍氏のエピソードのような状況では、その後何度もスーパーマーケットに訪れれば、そのうちに恐怖感はなくなる。一度恐怖体験した場所であろうと、もう恐怖を感じる必要がなければ平気になる。この現象は「恐怖記憶消去」と呼ばれ、恐怖記憶を喪失することではなく、恐怖記憶から感じる恐怖感が薄れる現象である。これも動物に普遍的な能力である。

一方、最近、恐怖記憶消去以外にも、記憶を思い出した後に起こる「恐怖記憶再固定化」と呼ばれる現象の存在が明らかにされつつある。簡単に説明することは難しいが、記憶は思い出されると不安定になり(柔い状態になり)、安定な記憶として脳内に再貯蔵されるために再固定化されるという意味である。この再固定化の意義に関しては、私も研究を進めているが、現状では、記憶アップデートのメカニズムと関係していると考えている。  以上の恐怖記憶固定化、再固定化及び消去の反応は、ヒトのみならず、ネズミ、昆虫までのほとんど全ての動物で観察される現象である。従って、ヒトと動物の恐怖記憶制御メカニズムの共通性も高いと考えられ、ネズミを使った研究であろうとも恐怖記憶制御の多くを理解できると期待される。ヒトにおけるPTSDは恐怖記憶制御の異常、つまり、「過度の恐怖記憶固定化や再固定化」あるいは「恐怖記憶消去の障害」を原因とすることは想像に難くない。

 

マウスの「恐怖記憶」

以上のような背景のもとで、我々は恐怖記憶制御解析のためのマウスの行動解析系を開発し、恐怖記憶制御、特に恐怖記憶再固定化と消去のメカニズムの解明に取り組んできた。  まず、我々が恐怖記憶研究に使っているマウスの行動テストを紹介したい。床に電線を敷いた小さな箱にマウスを入れ、軽い電流を2秒間流し、マウスに電気ショックを与えて(トレーニング)、電気ショックによる痛みによって、この箱は恐い場所であるとマウスに学習させる。その後、マウスを一端箱から出し、しばらくたってから、もう一度この箱に戻してやる。この時、マウスがこの場所は恐い場所であるという記憶を持っていれば、マウスは恐怖を感じて、身動き一つ取らない反応(すくみ反応;フリージングとも言う)を示す。マウスがすくみ反応を示した時間の長さを測定することによって、マウスの恐怖記憶の強さを客観的に評価する。

我々は、この行動テストを応用して、恐怖記憶制御に関わる遺伝子群の同定を進め、遺伝子操作マウスを使って転写調節因子CREBが恐怖記憶再固定化及び消去に必要であることを明らかにした。上述の実験において、電気ショックを与えるトレーニングの後に、もう一度箱にマウスを入れ、恐怖記憶を思い出させる。このタイミングでCREBの働きを止めてやると、恐怖記憶は不安定なまま、再固定化(再貯蔵)されず、その結果、恐怖記憶は壊れて無くなってしまう。この現象は一旦形成された恐怖記憶であろうとも、恐怖記憶が思い出されて不安定化される隙を利用して、恐怖記憶を壊してしまうことが可能であり、これを利用すればPTSDの治療が可能となることを意味している。実際に、CREBを活性化させるノルエピネフリンの働きを抑えることでPTSDを治療する試みが米国で行われ、PTSDの病態が緩和されたことが最近報告された。

 

恐怖記憶を軽減するには

また、我々は、恐怖記憶が思い出された後に不安定化されることに注目し、この不安定化のメカニズムの解明に取り組んだ。その結果、L型電位依存性カルシウムチャネル及び内因性カナビノイド受容体などの遺伝子群の活性化により、恐怖記憶が不安定化されることが明らかとなった。この結果は記憶を思い出させた時にこれらの遺伝子群の働きを高めてやれば、恐怖記憶を壊れやすい状態に誘導できることを示している。実は、カナビノイドとはマリファナの主成分であるため、この実験結果はマリファナが恐怖記憶を軽減する可能性を示しているが、マリファナの効用から考えれば、この結果は理にかなったことのようにも思われる。しかし、PTSD治療用にカナビノイドを使用することも可能であろうが、残念ながら、常習性を示す危険性から実現していない。今後、もう少し、既存の薬物で制御できる遺伝子群にターゲットを絞って研究を進めたい。さらに、我々は恐怖記憶再固定化や消去には海馬、扁桃体、前頭前野が重要であることを明らかにした。興味深い点として、ヒトのPTSDの患者においても、これらの脳領域の大きさや活性に異常が見られるとの報告が相次いでいる。ヒトとネズミの脳領域の機能が同一であると簡単には言えないが、やはり恐怖記憶制御のメカニズムには共通点が多そうである。 現在のPTSDの治療法として最も確実なのは、「暴露療法」と呼ばれる心理療法である。この方法では、薬は使わず、患者さんに長い時間に渡って、恐怖記憶を鮮明に思い出し続けてもらう。動物の世界で言えば、「恐怖記憶消去」を誘導させていると考えられよう。しかし、この方法のデメリットは、心理療法であるために、医師と患者が1対1で長時間かけて治療することを必要とする点である。そこで、現在、記憶再固定化や記憶消去が注目され、薬剤を用いて、再固定化を阻害して恐怖記憶を壊す、あるいは、記憶消去を速く誘導することで暴露療法に要する時間を短縮させることが試みられようとしている。その中で我々は、マウスの恐怖記憶制御を解析するための行動実験系を開発し、分子機構の解析や薬の有効性を検証してきたわけである。

 

ヒト研究とのキャッチボール

数年前に、PTSDの治療方法の開発に取り組んでいる医師に、PTSDは恐怖記憶の過度の固定化、あるいは、恐怖記憶消去の障害のどちらが原因となるかという素朴な疑問を尋ねたことがあったが、答えは曖昧であった。どうも固定化や消去といった現象をご存じなかったようである。  現在、戦略的創造研究推進事業CREST(三菱生命科学研究所・井ノ口馨先生代表)において、PTSDの治療方法を開発するプロジェクトが開始された。幸い、先端研究における研究成果が評価され、私もこのプロジェクトに参加できることになった。このプロジェクトではPTSDの患者を見たこともない私のような研究者と、実際に日本においてPTSD治療の第一人者である国立精神・神経センター金吉晴先生らが一緒になって精神医学と動物心理学の用語の違いに悪戦苦闘しながら、PTSD研究を進めている。 初めて金先生とお話ししたときに「暴露療法」と「記憶消去」の類似性に大いに感心し、私の中ではヒトとマウスの研究間でのキャッチボールのプレイボールが宣告された。金先生は我々の研究にも興味を覚えていただき、私にとっての最良のキャッチボール相手となって頂いている。我々が直接PTSDの患者を診療することは不可能であり、逆に、医師が治療の傍らでネズミの行動を観察するのも無理である。このようなキャッチボールが続き、相乗効果で新規治療法が開発されることを望みたい。

 

「ストレスに強い脳」を作る

また、このプロジェクトでは、「食」によってPTSD 予防する試みも行われている。国立精神・神経センターの松岡豊先生は交通事故後のPTSDのケアにあたっているが、魚摂取量の多い国ほど鬱病の患者が少ない、また、妊婦の魚摂取量とその子供のIQが相関することに着目し、魚に含まれる不飽和脂肪酸摂取を使ってPTSD発症率を低下させようとしている。現在は、社会的にも鬱病が問題となっているため、今後は、このように食習慣をコントロールすることで「ストレスに強い脳」を作る試みもスタートさせたい。スポーツ栄養学に匹敵する「精神栄養学」が確立されるのもそう遠い話ではないと思われる。

 

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