東京農業大学

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教員コラム

記憶力減退を防ぐ遺伝子の解明

2013年4月12日

応用生物科学部バイオサイエンス学科 教授 喜田 聡

高齢化社会の切実な課題

一夜漬けの試験勉強に向かうハメになった際、自分の記憶力に不満を覚え、「記憶力が良くなる薬があればいい」と感じたことは誰でもあるだろう。これはちょっと贅沢な悩みであるが、老化に伴う記憶能力の減退は、人類共通の悩みであり、高齢化社会を迎える我が国においては切実な問題である。また、認知症やパーキンソン病など記憶能力の減退を伴う疾患は多い。このような記憶力減退を防ぐ治療方法の開発や創薬には、そのターゲットとなる遺伝子を発見することが開発への第一歩となる。

では、どのような遺伝子が記憶障害を改善させるためのターゲットとしてふさわしいであろうか? 私の研究室では約10年間かけてこの遺伝子を探し続けてきた。記憶障害改善の鍵を握る遺伝子は、記憶制御に真に関わっているべきである。簡単に言えば、その働きを強めれば記憶能力が向上し、逆に、弱めれば記憶能力が減退する遺伝子こそが記憶能力を正に制御していると言え、この条件を満たす遺伝子が記憶障害改善を可能とする候補の筆頭である。しかし、現在までに、記憶能力が高まった遺伝子変異マウスや、記憶能力を負に制御する遺伝子の例は報告されているものの、正の制御遺伝子が明確にされた例はほとんどない。

 

CaMKIVマウスの誕生

我々は神経細胞内におけるCa2+情報伝達経路が記憶制御に重要であることに目を付けて、この情報伝達経路に関わる遺伝子群の記憶能力に対する役割の解析を行ってきた。実際に行ってきた実験手法は、遺伝子組み換えマウス(トランスジェニックマウス)を利用することである。遺伝子組み換えによって、遺伝子の働きを強めたマウスや弱めたマウスを作ってやり、記憶能力をテストし、その遺伝子の働きを評価する。単純であるが、強力な戦略である。

我々と共同研究先のトロント大学Zhuo教授のグループでは、既にCa2+情報伝達経路の働きを弱めると記憶能力が低下すること、特にこの情報伝達経路において中心的な役割を果たすカルシウム/カルモジュリン依存性キナーゼIV型(CaMKIV)が失われると記憶能力が大きく減退することを示していた。そこで、我々はこのCaMKIVの働きを強めたトランスジェニックマウスの作製を試みた。作製に着手したのは、1999年のことであり、前田良太君(2002年大学院農芸化学専攻博士前期課程修了、現在、武田薬品工業株式会社医薬研究本部創薬第三研究所で活躍中)が約2年間かけて作製した。作製したのは、野生型(普通の)マウスに比べて、約1.7倍量のCaMKIVが脳内に存在するCaMKIVトランスジェニックマウス(CaMKIVマウス)である。

 

記憶能力が高いマウス

現在、大学院バイオサイエンス専攻博士後期課程3年生の福島穂高君が、その後のCaMKIVマウスの解析を詳細に進めた。その結果、このCaMKIVマウスでは、脳内でCaMKIVの働きが強まっていること、細胞レベルにおける記憶形成のモデルと考えられている長期増強(LTP)が強まっていることが明らかとなった。最も大切な結果として、記憶能力を測定する複数のテストにおいて、このCaMKIVマウスの記憶能力が顕著に向上していることが明らかとなった。

我々が行った記憶テストの一例を紹介する。マウスは初対面のマウスに出会うと、相手のマウスに鼻先をくっつけて匂いを嗅ぐような行動をとる。これはマウスの社会行動の一種であり、相手を認識するための行動である。このマウスの社会行動を利用して、マウスの記憶能力を評価することができる。まず、記憶能力を測定するマウスと初対面のマウスを小さなかごの中で対峙させて(例えば、90秒間)、相手のマウスに鼻先を接触していた時間を測定する。その後、しばらくおいてから、もう一度同じ組み合わせのマウスを対峙させて、再び、接触時間を測定する。ここで、1回目より2回目の接触時間が短くなっていれば、相手のマウスを覚えていたと判断する。我々の実験では、普通のマウスは相手のことを1日経つと忘れていたが、CaMKIVマウスはちやんと覚えている結果が得られた。

したがって、以上の結果と過去の結果から、CaMKIVの働きが弱まると記憶能力が低下し、強まると記憶能力が向上することが確認され、CaMKIVは記憶能力の正の制御因子として働いていると結論した。

 

加齢に伴う記憶力の低下

さらに、CaMKIVと老化に伴う記憶能力の低下に関して、興味深い結果が得られた。きっかけは、2004年大学院バイオサイエンス専攻博士前期課程修了の鈴木良祐君の機転である。マウスを用いた老化研究は面倒である。マウスの寿命は2年強であるため、老齢マウスとは、2歳に近いマウスのことである。そこで、老齢マウスを使う実験では、計画した実験を行うまでに2年待つ必要がある(実際には十分な数のマウスを確保するため、2年では済まない)。また、実験が失敗すれば、次の実験は2年後になる。従って、このような実験を卒業までの時間が限られた学生さんが行うことは通常不可能である。学生に提案するのは躊躇する課題である。ところが、鈴木君は学部学生の頃から、CaMKIVマウスを必要数キープしておき、修士2年生の頃に、このマウスでは記憶力の低下が見られないことを示唆する結果を示したのである。

その後、福島君がこの実験を引き継ぎ、この結果を確定させて、CaMKIVマウスは年を取っても記憶力が衰えないことを実証した。また、福島君は、さらに難しい実験にも挑戦した。その結果、普通のマウスでは、記憶の中枢と呼ばれる海馬では、加齢に伴いCaMKIVの存在量が低下すること、さらに興味深い結果として、老齢マウスではCaMKIVの存在量が低いほど、記憶能力が減退している(老齢マウスではCaMKIV存在量と記憶能力が相関する)ことを示した。以上の結果は、老化に伴う記憶能力低下の原因として、CaMKIVの存在量の低下があげられることを強く示すものであった。従って、CaMKIVの活性低下を妨げることで、老化に伴う記憶能力の減退が阻止できることが強く示唆された。

以上までの研究成果から、CaMKIVマウスは年を取っても、記憶力が衰えないスマートマウス(頭の良いマウス)であり、CaMKIVは記憶能力の正の制御因子であることが明らかとなった。また、CaMKIVが記憶障害改善のための有力なターゲット遺伝子であることが強く示唆されたため、今後、CaMKIVをターゲットにして記憶能力を向上させるプロジェクトを開始したいと考えている。

 

学生たちの努力をたたえる

ここで説明した研究成果は、一緒に研究を続けてきた学生達の努力の結晶である。紹介した3名以外にも多くの卒業生が関わっている。2006年度バイオサイエンス学科卒業の上田謙次君は卒論研究でありながらも、後の研究進展の起爆剤となる貴重な結果を出してくれた。この場をかりて感謝し、彼らの頑張りを称えたい。また、ここで登場した3名の共通点は私のサッカー仲間である点である。数年前までは、毎週土曜になると彼らと一緒に農大グランドの片隅でボールを蹴っていた。

前田君がトランスジェニックマウスの作製に着手したのはほぼ10年前であり、「マウスが出来たら、焼き肉行こうぜ」と日々声をかけながら、マウスの作製を目指した。前田君は、研究室に居る間は必死で実験していたが、週に数日は夕方になるとラボから消え(飲みに行ってしまい)、土曜日になれば、一緒にサッカーをした。緊張をほぐすため、修論発表直前に生ビールをごちそうしたことは今では時効であろう。前田君のような元気でやんちゃな学生が再び現れることを期待したい。

一方、論文に掲載された実験のほとんどを成し遂げた福島君は本年度博士号取得予定である。学生の頃に、ワールドクラスのデータを出した実績は何にも代え難い経験である。査読者から厳しい要求も受けたが、福島君には「負ければW杯に行けなくなる試合で、一点ビハインドの後半ロスタイム」の心境でラストスパートに取り組むようにアドバイスした。笛の一向に鳴らないロスタイムが約1年も続いたが、よく耐えて頑張り、劣勢を覆してくれた。論文の掲載が決まった時の乾杯で、周りの学生から今何がしたいと聞かれ、福島君が言った言葉が嬉しかった。「サッカーやりたいです」。

 

 

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