東京農業大学

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教員コラム

疫病菌の繁殖誘導ホルモンの解明

2010年10月15日

応用生物科学部醸造科学科 准教授 矢島 新

病原菌を退治しないエコシステムへ

ヒトは微生物に勝てるか

農作物が被る被害の原因には、天候、害虫による食害、そして病原菌によるものが挙げられる。天候の制御は現在のところ不可能であるが、害虫や病原菌に対しては農薬を用いることである程度の防除効果が期待できる。しかし、相手が生物である為、農薬に対する耐性種の出現によって、その農薬が無効になる危険性が常につきまとう。特に相手が微生物の場合、彼らの遺伝子変異の速度は昆虫とは比べものにならず、耐性種は次々に誕生してしまう。  ヒトに感染する病原菌(例えばメチシリン耐性黄色ブドウ球菌MRSA)と抗生物質の“いたちごっこ”の歴史からも明らかなように、微生物に抗生物質(殺菌剤)で対抗する方法による人類の完全勝利は不可能であると考えられる。よって将来的には病原菌を殲滅するというコンセプトを離れて、彼らをうまく制御して共存の道を探る必要に迫られる時がやって来るに違いない。すなわち、次世代の抗生物質や農薬には、単に菌を殺すのではなく、彼らの生活環をうまく利用する“微生物制御剤”の開発が求められる。

 

人類の歴史に深く関わった疫病菌

Phytophthora(疫病菌)は、ジャガイモやトマトを始め様々な農作物に甚大な被害を及ぼす植物病原菌である。その名はギリシャ語のphyton(植物)とphthora(破壊者)に由来しているところからも質の悪さが伺い知れる。1840年代中頃にアイルランド飢饉の原因となり、約100万人の餓死者を出すに至った。この飢饉が、かのケネディー家が米国に移住するきっかけになったとされ、人類の歴史に対して様々な影響をもたらした。現在でもその猛威は留まるところを知らず、被害額は年間数十億ドルと見積もられている。疫病菌の防除には毎年膨大な量の農薬が用いられているが、近年農薬耐性種が出現し、特に米国では疫病菌が原因とされる楢の突然の立ち枯れ(sudden oak death)が急速に拡大し問題化している。  このように疫病菌が悪性化、耐性化するのには彼らの生活環が関係している。彼らの中には通常の有糸分裂による増殖の他に、有性生殖を行うものがいる。有性生殖により、次世代は遺伝的多様性を獲得することが可能となり、農薬耐性等を得るに至るのである。しかもその際形成される卵胞子(oospore)は、固い二重の殻に覆われており、乾燥や高温等の悪条件でも数十年生き続ける事が可能で、条件が整うと発芽して次世代が誕生するという非常に厄介な特性を有している。よって、有性生殖の仕組みを理解し、有性生殖を効果的に妨害することが可能となれば、疫病菌防除の新基軸を打ち出す事が可能であると考えられる。

 

有性生殖メカニズムの理解の為に

疫病菌Phytophthora infestans等にはA1株、A2株の二種が存在するが、その両方が雌雄同体であり、どちらの株も卵胞子(又は造精器)を形成する能力があるという大変ユニークな有性生殖様式を有する(図1)。その際、卵胞子の形成にホルモン様物質が作用している事は既に1929年に報告されており、A1株が放出しA2株に卵胞子形成を誘導する物質はホルモンα1、逆にA2株が放出し、A1株に卵胞子形成を誘導する物質はホルモンα2と命名された。

しかし、それらの存在量のあまりの少なさの為、物質の解明、構造決定は困難を極めた。最近名古屋大学の小鹿らは、なんと合計1870LものP.nicotianaeの液体培養液から、僅か1.2㎎のα1を単離することに成功し、NMRスペクトルの詳細な検討によりその平面構造を明らかとした。しかしながら、α1は直線的な分子であることが災いして、その立体化学(三次元構造)を明らかにする事はできなかった。驚くべき事に、α1はP. nicotianaeのみならず、他のPhytophthora属に対しても卵胞子形成を誘導した。すなわち、疫病菌に共通のホルモンである可能性が高い。よって、このα1を突破口として疫病菌の有性生殖に関する有益な知見を得る事が可能であると考えられた。

 

立体化学の重要性

α1のように天然もしくは培養によって得られる量が限られる物質についての研究を行う場合、化学的に合成することによってサンプルを得る方法が適当である。α1について残された課題はその立体化学の解明であるが、α1には4つの不斉炭素原子が存在する為、16の立体異性体が存在する。生理活性物質の生理作用発現には、立体化学が重要な影響を与えることが知られており、疫病菌有性生殖を研究する為には、天然のα1の立体化学を決定する必要があった。  しかし、その前に我々はまず、α1の立体異性体混合物を化学的に合成することを試みた。立体異性体混合物(可能な16異性体混合物)が天然のα1と同程度の生理活性がある場合、卵胞子形成にはα1の立体化学は無関係、すなわちどの立体異性体でも活性は同じであると言えるはずである。この場合、例え全ての立体化学を制御した形でα1の16異性体を合成したとしても、それらのサンプルの卵胞子形成能は同じであるから、労力の無駄となってしまう。しかし結果は合成した立体異性体混合物の卵胞子形成誘導活性は天然α1の5分の1から10分の1以下であることが明らかとなり、これはすなわちある特定の立体化学を有する化合物のみに卵胞子形成能が有り、α1の立体化学は活性発現に重要な役割を果たしていることを意味している。逆に言えば、卵胞子形成能を有する立体異性体こそが天然のα1と同一の立体化学を有していることを意味する。よって、原理的には片端から16異性体を合成すれば良い訳であるが、その為には膨大な作業が必要である。

しかし幸運なことに、我々が立体選択的な合成研究を開始すると同時期に、小鹿らは分析化学的手法を駆使することによりα1の4つの不斉炭素原子のうち端の2つの立体化学を決定する事に成功した。これにより、天然のα1の可能な立体異性体は16から一気に4つに絞られ、立体選択的合成研究完成の機運が高まった。光学活性α1合成には高い立体選択性が求められるのは当然として、構築した立体化学のラセミ化をいかに防ぐかを念頭に置いて合成方法を検討した。紙面の都合上詳細は割愛するが、3位、15位の立体化学はEvans不斉アルキル化を用いる方法で、7位はシトロネロールを用いる方法で、11位の水酸基はSharpless不斉ジヒドロキキシ化を用いる方法によりほぼ完全な立体制御を伴ったα1の合成方法を確立することに成功した。次いで原料や試薬の立体化学を組み合わせることで、天然α1の候補となる4種の立体異性体を合成することができた。合成したα1の4異性体を卵胞子形成誘導活性試験に供したところ、ただ一つの立体異性体(1a)のみに卵胞子形成誘導能があることが分かった(図2)。この結果より天然のα1の三次元構造を初めて明らかにするとともに、疫病菌は卵胞子形成に重要な役割を担うシグナル分子(α1)の立体化学を厳密に認識しているという極めて重要な知見を得ることができた。

 

病原菌との共存は可能か

本研究はおよそ80年に渡る疫病菌ホルモンの構造決定研究に終止符を打つものとして高く評価された。確かに一つの明確な区切りとなる成果を得る事ができたものと考えているが、しかしこれは疫病菌に関する新たな研究の幕開けに過ぎない。疫病菌の薬剤耐性獲得には有性生殖が大きな役割を果たしている。今回有性生殖の仕組みの一端が明らかとなったことから、より有効で、環境負荷の小さい疫病菌防除法の開発に繋がる事が期待されており、微生物学、化学の垣根を超えて展開されるケミカルバイオロジーに関心が高まっている。病原菌を撲滅するのではなく、上手く共存していく道を探る“エコシステム”が実現する日もそう遠い未来の話ではないのかもしれない。

 

 

 

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