東京農業大学

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教員コラム

近代農学の源流(下)老農たちが果たした役割

2010年10月18日

近代農学の源流(下) 国際食料情報学部食料環境経済学科 教授 友田 清彦

新進の農学士たちと交流

老農崇拝の時代

東京農業大学初代学長の横井時敬は、駒場農学校農学科の第2期生(明治13年[1880]6月卒)である。駒場在学中前後を回想した横井の文章に、次のような一節がある。「駒場農学校は内地の開墾のために英国的大農法によらしむとの趣旨にて、英人を以て教員を組織し、もっぱら英国の農業経済を学んだ。ここに学んだ学生の大過半は、大麦・小麦をもわきまえぬ武士の生まれで、しかも教師は英人であったから、英国の農業は知っていても日本の農業は知らぬというような風で、農学校を出ても、至るところ手の伸ばしようもなかった」。駒場の卒業生は、「机上の論で実際に用をなさぬものとして、世間に信用なく」、ここに起こったのが「老農崇拝熱」であった。

 

老農とは何か

老農に類する言葉に、篤農や精農、農聖、農哲などといった言葉がある。老農と言っても年老いた農民ではない。徳川時代の大老や老中が、必ずしも老人でなかったのと同じである。農業技術に秀でた在地の農村指導者と言えば誤りではないだろうが、何か微妙な違和感は残る。ここではあえて定義せずに、まずは彼らの事蹟を見てゆくことにしよう。

 

4人の明治三老農

横井時敬が駒場農学校を卒業したころ、三老農として、とくに崇められていたのは、中村直三、奈良専二、船津伝次平である。最年長は、大和の老農・中村直三で、文政2年(1819)の生まれ。稲の優良品種の収集・試作・普及に功績があり、主著『勧農微志』『大和穂』『伊勢錦』などは、すでに幕末期に著されている。

次いで、讃岐の奈良専二。文政5年(1822)の生まれ。「奈良稲」と名付けた優良品種の育成・普及や、「砕塊耙、一名日雇倒シ」など農具の発明・改良に与って力があり、『農家得益弁』『米作改良法』などの著書を明治10年代末から20年代初めにかけて刊行した。中村も奈良も、明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会への参加を契機に全国的に知名度を高め、中村は秋田県や宮城県、奈良は千葉県などに招かれて、農事改良の指導を行った。三老農の最年少は群馬の生んだ船津伝次平、農学史上では最も知名度が高い。船津については後述しよう。

中村直三は明治15年(1882)、奈良専二は明治25年(1892)、船津は明治31年(1898)に亡くなった。中村の死は比較的早い時期であったため、その後は林遠里が三老農の一人に数えられるようになった。いわゆる明治三老農は、4人存在するのである。

 

近代農学と対立した林遠里

林遠里は天保2年(1831)の生まれ。家系は代々福岡藩で砲術役を家業とし、遠里自身も藩の銃砲教導方や鋳砲方を務めている。他の三老農はいずれも農民出身であるから、武士出身の遠里を老農と呼ぶのはいささか疑問である。明治に入ってから帰農し、明治10年(1877)『勧農新書』初版を刊行、同14年(1881)第2回内国勧業博覧会に同書の再版を出品し注目を集めた。明治17年(1884)以降、富山・石川の両県を皮切りに、「寒水浸法」と「土囲法」を中心とする遠里流の稲作改良法を伝えるため、各県からの招聘に応じて巡回を開始し、その足跡は北は青森から南は熊本にまで及んだ。さらに、明治20年(1887)には勧農社を創設、同社から実業教師を全国に派遣し、遠里農法の普及をはかった。

このような遠里流の稲作改良法に強い敵愾心を抱いたのが、駒場農学校を卒業した新進の農学士たちである。冒頭の引用文に続いて、横井は次のように述べている。横井らは「老農崇拝熱に悩まされたが、なかんずく林遠里の勢力は甚だしかった。彼は決して老農ではなかったが、彼の双腕とも称すべき寒水浸し・土囲いは、理論としては老人に最も信用せらるる、いわゆる陰陽五行的自然法であった。酒勾常明農学博士は『米作新論』を著して寒水浸を悪法の極と極論した。全体の農学者が彼のために悩まされたことは夥しい。けれども農学者が歩一歩勢力を得て遠里は歩一歩勢力を失った」。

明治20年代後半になり、勧農社の支持基盤は揺らぎ、活動も衰退していく。明治30年代に入ると、なお幾人かの実業教師が活動していたが、勧農社そのものは役割を終える。そして、明治39年(1906)、林遠里はその生涯を閉じた。享年76歳であった。

 

船津伝次平と近代農学者たち

林遠里とは対蹠的な老農が、船津伝次平である。今一度、横井時敬の言葉を引いてみよう。横井らが卒業したころ、駒場の卒業生は「何も知らず、結局農学の一斑生かじりの理論に通じていたのみであるから、世間に信用のなかったのは当然であった。故に日本の農業を研究せねばならぬと気付いた連中は、駒場に残った人や農商務省にいる人は、船津伝次平氏の説を受けて利益したけれど、地方の者にはこの便利」はなかった。

船津伝次平は、天保3年(1832)、現在の群馬県勢多郡富士見村に生まれた。当時の熊谷県令(熊谷県の大半はのち群馬県となる)が船津を農学特秀者として推薦したことを契機に、内務卿大久保利通に見いだされ、明治10年(1877)に内務省御用掛、勧農局事務取扱を申し付けられた。以降、駒場農学校で稲作・養蚕など在来の農業技術を教授し、また農商務省の甲部普通農事巡回教師として全国を巡回し、さらに明治20年代後半には農商務省農事試験場の技手・技師として、わが国の農事改良のために尽力した。

船津の業績は多岐にわたる。中でも特筆すべきは、上の横井の言葉にあるように、駒場を卒業した農学士・農芸化学士たちとの交流を通じて、近代農学の誕生に大きな役割を果たしたことである。

近代農学の学理に基づく、わが国最初の稲作技術書を著したのは酒勾常明であった。明治20年(1887)に刊行された『改良日本米作法』がそれであり、翌21年に再版、25年(1892)に『増訂三版 米作新論』、29年(1896)に『増訂五版 米作新論』と版を重ねた。その「序」や「緒言」の中で、酒勾は何回も船津伝次平の名を挙げ、船津を「師友」と呼んでいる。この著は船津伝次平無しには存在し得なかったのである。

 

老農時代の終焉

明治10年代半ばから20年代にかけては、老農たちの時代であった。酒勾常明と船津伝次平の事例に見られるように、御雇外国人教師を通じて欧米の近代農学を学んだ農学士たちは、老農たちとの交流の中で、初めて日本農業に関する発言力を獲得していく。わが国における近代農学の誕生にとって、老農たちは欠くことのできない存在だった。画期的な稲作技術である横井時敬の塩水撰種法や、酒勾の著書と並ぶ『稲作改良法』(明治21年[1888]刊)もそうである。福岡時代の横井の身近に、船津伝次平はいなかったが、多くの在地の老農たちがいた。彼らとの交流こそが、横井時敬の前半生を築いたのである。

明治26年(1893)に農事試験場官制、翌27年(1894)に府県農事試験場規程、32年(1899)には府県農事試験場国庫補助法が公布される。試験場体制が整備され、農事改良の中核は老農技術から試験場技術へと変わる。農学校が拡充され、系統農会が法認される。駒場を卒業した農学者たちの多くが、欧米、とくにドイツに留学し、帰国した留学生たちは帝国大学農科大学や高等農林学校の教授、農事試験場技師などとなる。老農時代は終焉を迎え、近代農学者の時代が始まるのである。

 

 

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