記憶の神秘とメカニズム
2010年10月15日
応用生物科学部バイオサイエンス学科 教授 喜田 聡
みなさんは毎日、日々の勉強でたくさんのことを覚え、記憶していることと思います。でも、記憶されるメカニズムがどうなっているのかご存知ですか?
応用生物科学部バイオサイエンス学科の喜田聡 教授がナビゲーター役となって、記憶の神秘とそのメカニズムについてやさしく解説していきます
こんな経験はないでしょうか?試験勉強で必死になって英単語を覚えたのに、1週間後にはすっかり忘れている。ところが、覚えようとしたわけでもないつまらないことを、なぜかいつまでも覚えている。
同じ記憶でも、すぐに消えてしまうものと、いつまでも残る記憶がある。よくよく考えてみると実にふしぎなことです。そもそも記憶とはどこで蓄えられるのでしょうか?それがわかったのは、ほんのささいなことがきっかけでした。
いまから半世紀近く前、ある患者のてんかんの症状が重くなり、手術によって脳の中心にある海馬と呼ばれる場所を切除しました。当時、海馬を取り除くとてんかんが治るといわれていたからです。実際、手術後に患者のてんかんは治りました。ところが、もうひとつ大きな変化がありました。記憶ができなくなってしまったのです。
昼に何を食べたかも覚えてなく、周りの人の顔も名前も覚えられない。「毎日がその日一日で終わってしまう。どんなに悲しいこと楽しいことがあってもあとに残らない」。こう患者は嘆きました。しかし、記憶ができなくなったといっても人柄は以前と同じように明るく、見た目やしゃべり方はごくごくふつうなのです。そして興味深いのは、手術前1〜2年の記憶はなくなっても、小さいころの記憶など、それ以前の記憶はしっかりと残っていたことです。これはいったい何を意味しているのでしょうか?
異なる貯蔵場所
記憶は大きく2種類に分かれます。ひとつが先ほど述べた、一夜づけの試験勉強をしてもすぐに忘れてしまう「短期記憶」。もうひとつが、一度覚えたら1年も2年も記憶に残っている「長期記憶」です。
海馬を切除して記憶ができなくなってしまった患者は、お昼に何を食べたかを覚えられませんでした。つまり新しく入ってくる情報を記憶することができなくなってしまったことがわかります。逆に小さいころの記憶はしっかりと覚えていることから、昔覚えた長期記憶は保たれていることがわかります。
患者は手術によって海馬を取り除きました。その結果、記憶ができなくなってしまったので、海馬が記憶を脳に定着させることに関係していることがわかったのです。それは同時に、長期記憶が海馬ではなく、別の場所で保存されていることを示唆するものでした。では、長期記憶はどこで保存されているのでしょうか?
結論から言うと、一度海馬で保存されたものが、最終的に脳の外側、つまり大脳に蓄えられるのです。患者は海馬を切除したものの、大脳はそのまま残っていたため、長期記憶が保たれていたわけです。ではそもそもなぜ、同じ記憶が、あるものは短期間しか残らず、あるものは長期記憶になるのでしょうか?
遺伝子との関係
こんな話をよく聞きます。「交通事故にあった人は、その時の情景を細かく覚えている」と。このことから、鮮烈なできごとは記憶に残りやすいことがわかります。つまり、海馬が受ける刺激が強いと長期記憶になりやすいのです。
マウスを用いた実験によると、遺伝子の組み換えにより、海馬で記憶する時の刺激が強くなる(増幅させる)ようにしたマウスと通常のマウスとを比較した場合、前者のほうが長期記憶能力が高かったという結果がでました。また学習方法で見ると、長い時間続けてやるよりも、学習と学習の間に間隔を設けると、記憶力が上がることがマウスの実験でわかっています。海馬に蓄えられた記憶を何度も出し入れすることで、記憶が定着しやすくなると考えられます。
脳はまだまだ謎の多い未知の世界です。でも私たちは、従来の脳研究よりさらに一歩踏み込んで、いま脳と遺伝子の関係について研究を進めています。記憶力が極端に落ちてしまうアルツハイマー病、あるいは精神障害など、治療方法のない病気に希望の 光を射し込むことができればと考えているのです。
バイオサイエンス学科は、生命の根源に光を当てていきます。
*用語説明*
《1》てんかん 痙攣・意識障害などの発作をくり返す脳の疾患。突然意識を失って倒れ、硬直・手足の痙攣を起こすなど、症状は多様。遺伝的素質によるほか、外傷・脳腫瘍など脳の損傷によっても起こる。
《2》海馬 大脳の古皮質に属する部位で、欲求・本能・自律神経などの働きとその制御を行う。
「大辞林」より引用