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ニュースリリース

建学の祖・榎本 武揚先生を偲び展墓

2024年5月14日

お知らせ

5月10日(金)、東京農業大学の建学の祖・榎本 武揚先生展墓を行いました。
今年は榎本 武揚先生の没後116年にあたります。

展墓には榎本 武揚先生の曾孫にあたる榎本 隆充さん、玄孫の榎本 隆一郎さんとともに学校法人東京農業大学の江口 文陽 理事長をはじめとする役員が参列しました。

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建学と教育のルーツ

榎本 武揚(1836-1908)

Enomoto Takeaki

1836~1908年。武士(幕臣)、化学者、外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本円兵衛武規の次男として生まれる。北海道開拓使、駐ロシア特命全権公使として北海道開拓とロシアとの条約締結に尽力。初代逓信大臣、農商務大臣など要職を歴任。メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身となる徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設。

東京農業大学は1891年(明治24年)、榎本 武揚によって設立された私立育英黌農業科が始まりです。近代農業の知識と技術を国内に定着させるためのリーダー育成という目標を掲げたものでした。

江戸幕府初の海外留学生に選ばれた榎本 武揚は、留学先のオランダで造船学や洋式海軍技術、政治経済をはじめ、西洋文化、農業、工学を学びました。寄港先々で生物の生態系を記録しながらインド洋から喜望峰をまわった経験が後に多くの国家事業を成した原動力となる「科学する心」と「冒険心」を培ったといえます。友人にあてた書状にはオランダ語で「Onderneming is de beste meesteres(冒険は最良の師である)」という言葉が残されています。最先端の西洋科学と国際法を身につけて、帰国後まもなく、戊辰戦争によって明治新政府が発足。日本の近代化のために北海道開拓を目指そうとした榎本 武揚は、明治政府に仕えた後も開拓使として力を尽くしました。その後、政府の要職を歴任し諸外国の産業を視察した榎本武揚は、日本が国際社会で競争力を持つには安定した農業生産が欠かせないと考えます。その想いが「私立育英黌農業科」創立へ向かい、建学の精神は農学者であり熱意の教育者であった初代学長・横井 時敬へと受け継がれました。

横井 時敬は、農学の教育研究を通して農業・関連産業と農村文化・社会の発展に寄与する人材育成を目指し、その教育理念を「実学主義」におきました。「稲のことは稲にきけ、農業のことは農民にきけ」との言葉は、東京農業大学の研究教育の精神的支柱として今もなお語り継がれています。

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