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「収穫祭」ヒストリア

収穫祭ヒストリア

 10月初旬に開催されるオホーツクキャンパスを皮切りに、厚木キャンパス、世田谷キャンパスの3キャンパスでそれぞれ催される「収穫祭」は本学最大のイベントである。学園祭でありながら近隣の住民の方々、OB・OG、保護者、主催する学生等を数えると毎年10万人以上の来場者で開催期間中はキャンパス内を歩くのも一苦労するほどの大賑わいである。全国に大学の数多しといえど、その知名度と来場者数でいえば本学の「収穫祭」は屈指の学園祭の一つといえる。また、他校の学園祭が多くの芸能人を呼び集客をするのに対し、本学「収穫祭」は芸能人に頼らず、一から教職員の協力のもと学生の手作りであるところが誇らしく思える。

 各キャンパスでは、初日の「食の神様」である豊受大御神を祀る豊受大神宮の奉献式にはじまり、各キャンパスの特徴を生かした「サケのつかみ取り」、「大根収穫体験」、「大根チャリティー配布」をはじめ、朝早くから来場者が列をなす。収穫祭の内容は、文化学術展、各団体が繰り広げるステージ企画、出店数80を超える模擬店・販売促進店、また本学と包括連携協定を結ぶ地域の物産店などである。フィナーレは「体育祭」である。

 そもそもの「収穫祭」の起源は、当時の教頭 吉川祐輝先生の発意で明治38年(1905年)10月8日に行われた東京高等農学校の生徒が二子多摩川川原へ遠足に赴いた際に、余興として運動競技を催したことにある。当時の記録では、早朝7時に東京府豊多摩郡渋谷村常盤松にあった常盤松校舎に90余名が集合して教員とともにと徒歩で出発、三軒茶屋を経て世田谷に入り、午前9時30分過ぎに二子多摩川の川原に到着したと記されている。午前10時頃に農友会会長であった横井時敬先生が到着され競技が開始された。様々な運動競技の中に「種子鑑定選手競技」というのがあったのは本学らしく大変興味深い。横井先生は競技終了後、「今日のような楽しい運動会は、これから毎年継続して盛大にしたほうがいい」と講評されたそうである。翌年明治39年は、遠足を兼ねての運動会が世田谷村(当時)の松陰神社境内で行われた。翌40年からは常盤松校舎近くの青山の本尾原で純然たる運動会がはじまり、運動競技以外の仮装行列やお国自慢の舞踏などが繰り広げられ、数千人の観客を呼び一躍名声を博したのである。また、学生の消費組合の売店では記念絵葉書、記念菓子折、弁当、パン、ラムネのほか、卵、柿、リンゴなども販売して観客サービスをしたため「東京高農の運動会はサービスがよくて楽しい」と評判になったそうである。

 1911年(明治44年)専門学校令により私立東京農業大学と改名し、初代学長に就任された横井時敬先生は、「われわれ農業の大学においては、年に一度の収穫の時期に於いて感謝の祭りを催して其の労苦の汗や泥を裸になって洗い落すことが必要ではないか」とよく話されていたようである。このことからもわかるように、横井時敬先生は本学学生の収穫の祭りを重要視し、楽しみにされていたようである。以来、大正7年第12回までは本尾原で、翌第13回から昭和3年の第21回までは渋谷町氷川神社裏の当時の日本陸軍の演習地を借用して盛大な運動会が行われた。余興も豪華になり、農大の徽章を染め抜いた浴衣、別誂えの手拭、花笠、白足袋の出で立ちで当時の学生たちは踊りを楽しんだ。また、現在も世間では「大根踊り」として知られ、歌い踊り継がれる「青山ほとり」は、大正12年の高等科3年のクラス応援歌として披露されたものである。昭和4年からは新運動場として設置された元住吉グランドで運動会が開催された。昭和7年に制作された応援歌の「ああ 若人の血は踊り 青春の意気ここに燃ゆ・・・」にはじまる勇壮活発な歌詞が響く元住吉グランドに奮起する農大生の姿が目に浮かぶ。昭和16年、戦時色が強まる時局の中「運動会」の名称は「収穫祭」と改められて開催された。しかし、昭和17年の第33回を最後に中止を余儀なくされた。

 昭和20年5月21日の東京大空襲により渋谷にあった常盤松校舎も廃燼と化してしまい、8月15日に終戦を迎えた。校舎を消失した本学は、戦前から所有していた用賀農場に近い世田谷区世田谷4丁目(現在の桜丘1丁目)にあった陸軍機甲整備学校跡地に着目し、交渉により一部学生の授業を再開、さらに進駐軍であるアメリカ第8軍司令部との交渉により9月には現在の農大一高の場所、昭和21年3月には機甲整備学校全域の使用を許可され世田谷時代を迎えた。

 そして、同年11月3日に世田谷キャンパス構内で復活第1回(通算第34回)の収穫祭が開催された。終戦直後で荒れ放題の機甲整備学校跡地を学生たちが黙々と整備し続け、平和の祭典である収穫祭の開催にこぎつけたのだった。収穫祭の人気であった余興(野外劇)に来場者は大いに歓声を上げたようである。ちなみに、この復活第1回収穫祭の開催に先立っては街頭宣伝競争が行われている。これは本学独特の画期的な企画で、まだバラックが立ち並ぶ銀座のど真ん中で「青山ほとり」を披露して、何事かと集まった人々からは大きな拍手が沸きおこったという。これ以降、収穫祭の前にはブラスバンドを先頭に宣伝隊が繰り出すようになった。

 昭和22年の第35回からは運動競技と野外劇に加えて校舎を開放して農学展が催されている。これが昭和32年第45回収穫祭から現在のまで継承されている文化学術展のもとである。農学研究者だけでなく来場する一般の方々に本学の農学分野の研究成果を分かりやすく学生が発表し、農学知識を普及させる機会となった。現在の文化学術展は、農友会文化団体連合会に所属する各部と同好会・サークル活動の成果発表の場としても大いに活用されている。

 平成元年(1989年)に北海道網走市に開学したオホーツクキャンパスでは同年から第1回の収穫祭が開催され、本年度で32回目を迎えている。

 また、平成12年(2000年)に開学した厚木キャンパスでも同年から第1回の収穫祭が開催され本年度で21回目を迎える。

 収穫祭の通算回数は、昭和37年の創立70周年収穫祭で49回を迎えた(途中で皇室の崩御や戦争などにより数回中止されている)。ところが、翌年より回数表記と周年表記が混同されたため昭和38年は第71回収穫祭となってしまった。以降、誤ったまま周年表記が使用されてきたが、数年前より周年表記を正式としたため、今年は創立129年収穫祭と称している。通算回数では107回である。

 明治、大正、昭和、平成、そして令和の時代に引き継がれてきた本学の収穫祭は時代とともに変化をし続けている。しかし、そこには本学の収穫祭を楽しみに遠方からも足を運んでいただいている大勢の方々の応援に支えられていることを我々は忘れてはならない。

 かつて観衆に言わしめた「東京高農の運動会はサービスがよくて楽しい」は、ただ単に食べ物を安く提供することではなく、学生諸君が楽しく収穫祭を運営する姿を見ていただけるからこそ生まれる言葉である。今年度は、未曽有の新型コロナウィルス感染拡大により各キャンパスにおける例年通りの収穫祭開催はやむなく中止となってしまったが、新たにインターネットによるオンラインでの収穫祭を開催することとなった。これは本学の伝統ある収穫祭の新たなる挑戦のはじまりである。

令和2年12月

          文責 実行本部長 古 庄  律
(国際食料情報学部 国際食農科学科 教授)

*本文の作成に当たっては「東京農業大学百年史」、「東京農業大学百十年史」、「東京農業大学百二十五年史」に記載されている内容を参考とした。

収穫祭の歴史年表

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