東京農業大学

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次代を創る、農のみのり

遠足会の余興からはじまった運動会

 明治38年(1905年)10月に、東京高等農学校校長(後の初代学長)横井時敬が、幹事長吉川祐輝の発意で二子多摩川原に遠足会を開催しました。その際の余興として、運動競技などの催し物が行われたことが、収穫祭のはじまりと言われています。(図:第1回収穫祭ポスター)

 これに引き続き、翌年の明治39年(1906年)11月に世田谷松陰神社境内で、前年同様の遠足会と運動会を兼ねた行事を行いました。

 さらに明治40年(1907年)11月に青山にあった本尾家原においてはじめて純粋な運動会が開催されました。行列演舞や農事改良踊など、さまざまな舞踊が競技が加わり、数千人の観客を集め一躍にして名声を博しました。その後回を重ねるごとに余興や演舞が洗練され、青山名物の運動会となりました。



運動会から「収穫祭」へ

 運動会は昭和17年(1942年)まで行われていましたが、その後大東亜戦争が激しくなるに従い運動会という名称では開催することができなくなりました。農友会は全面的に機構の名称や体制を改正し、戦時下という時代に合わせた活動を続けました。この改革に伴って、従来の運動会は「収穫祭」へ改められました。

 第一回収穫祭は昭和16年10月に元住吉本学運動場で盛大に行われました。当時の収穫祭は、現在のような文化学術展や模擬店はなく、学科対抗競技を行っていました。中でも仮装行列と野外劇が農大の名物でした。(写真:元住吉グランドで行われた第 1 回収穫祭のアーチ)

 しかし第二次世界大戦の激化のため、収穫祭は昭和17年11月を最後に昭和20年まで中止となりました。
 収穫祭が再開されたのは終戦の翌年、昭和21年(1946年)11月でした。現在の世田谷で行われ、以来世田谷キャンパス、後に厚木キャンパス、オホーツクキャンパスにて開催されています。



「青山ほとり」の歴史

 農大といえば、「青山ほとり」、通称「大根踊り」といわれる程有名な応援団の演舞があります。
 この歌は、今から90年前の大正12年(1923年)、当時本学の専修科に在学中であった市山正輝が作詞したものです。農大を讃え、東京府民に農業の尊さを訓えたユーモアたっぷりの歌詞です。

 曲は市山の出身地北海道湯の川温泉付近で歌われていた曲を取り入れたと言われています。当時の学生の気質に一致し、学生に広く愛唱され、野球や相撲、陸上競技の応援で歌われました。

 初演は昭和26年(1951年)10月、渋谷のハチ公前でした。トラックに乗って現れたのは、東京農大の「収穫祭宣伝隊」の学生たち。法被姿で、両手に大根を持ち、歌と太鼓に合わせて踊り出しました。(写真:応援団集合写真)
 突然の光景に、道行く人はあっけに取られて足を止め、ユーモラスな踊りを眺めるうちに、みるみる笑い顔が広がりました。踊り終えた宣伝隊は、用意した大根1,000本をただで配りました。騒ぎを聞きつけて集まってきた人たちは、われ先にと大根を奪うように取っていったが、誰もが笑顔で「学生さん、ありがとう!」と声をかけたそうです。

 「大根を持って踊る」ことに、応援団員は最初は反対していました。しかし、先輩応援団が後輩の前で踊った際に、踊った人も見ていた人も皆笑顔になったのを見て、「平和というのは、人々に笑える自由があることではないのか」と気づき、大学の理解も得て「大根踊り」が始まったそうです。

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