東京農業大学のあゆみ
1891年の創立以来、次々と進化・発展を遂げてきた東京農大の軌跡
1869年
育英黌前史——沼津兵学校の開校
明治維新により現在の静岡県に移封された徳川家の士官養成学校「沼津兵学校」が沼津城の二の丸御殿を使って開校した。東京農大の学祖・榎本武揚の人脈に連なる国際派の旧幕臣らが教授陣として結集、数学や語学などの実学を重視し、「数学の沼津」と称された。
頭取には近代日本を代表する啓蒙思想家の西周(にし・あまね)が就任、先進的な教育理念で牽引した。三等教授方として教鞭をとった永持明徳はのちに、東京農大の原点・徳川育英会育英黌の初代黌長となる。
1871年
新政府への移管
廃藩置県により、沼津兵学校は新政府に移管となる。兵学校への進学者を育てる目的で同時開校した付属小学校も沼津小学校と改称。
1872年
受け継がれる理念・精神
生徒や設備を中央に引継ぎ、沼津兵学校はわずか3年半の歴史に幕を閉じた。その教育理念と精神は、育英黌に受け継がれていくことに。


1891年
徳川育英会育英黌農業科の創立
徳川家が駿河(静岡県)に収容した旧幕臣の子弟を教育するために、明治元年10月に沼津兵学校を設立した。沼津兵学校は、士官養成を目的とし、教授陣には西周助を頭取に、当時の日本では最高の教養と学問を身に付けた人材が参加した。数年後に沼津兵学校は消滅したが、学校関係者が多数参画して東京農大の原点「育英黌農業科」が、現在のJR中央線飯田橋駅近くに産声を上げる。生みの親は、逓信、農商務、文部、外務の大臣などを歴任した榎本武揚であった。当時の新聞は「~専ら実際応用的に教授し~」などとその実学的な教育を報じている。
1893年
東京農学校の設立
経営母体であった育英黌から独立。校地は現在の東京都文京区に前年移転し、1.28ヘクタールの農地を持った。
また、この年第1回の卒業式を挙行。18名の卒業生と在校生との間に自然発生した同窓会が、農友会の起源である。


1894年
建学の理念の確立
榎本武揚の招聘で、明治農学の第一人者である横井時敬が評議員として参画。渋谷の常盤松御料地への校地移転、大日本農会への経営委託など、さまざまな改革に取り組み基礎を固めていった。1907年には大日本農会附属私立東京高等農学校の校長に、1911年には私立東京農業大学の初代学長に就任。「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」など、実学を重視する多数の言葉は今なお東京農大の教育の根底に息づいています。
東京農大のあらたな1歩
明治28年に東京農学校を卒業した片岡親一氏の卒業証書が発見され、御親族から令和元年11月3日に本学へ寄贈されました。
明治28年9月28日付の卒業証書は、本学にとっては最も古い現存する卒業証書となります。そこには校主榎本武揚、校長伊庭想太郎そして東京高等蚕糸学校初代学校長の本多岩次郎や醸造学酵母研究の重鎮矢部規炬治の名と印がある貴重な資料である。当時の東京農学校の教員組織から徳川育英校創立に関するその背景を窺うことが出来る貴重な資料でもあります。
片岡親一 紹介
片岡親一と横井時敬先生
1897年
渋谷常磐松への移転
明治30年、東京農学校の校舎が暴風雨で倒壊したため、教頭横井時敬は、大日本農会の幹部にはかり、渋谷村常盤松御料地の一部を校地として借用する運動をおこした。大日本農会の総力をあげた猛運動は攻を奏し、常盤松御料地一部借用と、建物の払い下げを受け、校舎として利用できることとなった。こうして、東京農学校は、明治31年10月9日、常盤松に移転し、常盤松台地にその基礎を築いた。
1901年
東京高等農学校発足
明治34年、文科省の認可を得て、大日本農会附属東京高等農学校と改称し、学則を改正、就業年限3ヵ年を4ヵ年に改めた。明治35年には専門学校令が発令され、本校も文部省の認可を受け、明治36年専門学校令による高等農学校として学則を改正し、明治41年横井時敬が正式の校長に就任した。


1907年
収穫祭の前身、運動会の開催
1905年の遠足の際、余興として試みた競技運動が学生の興味を呼び、翌々年から運動会が開催されるようになった。仮装・扮装の余興も評判となり、後の収穫祭に継承されていくこととなる。収穫祭と改称されたのは戦前。戦後からは11月3日を中心に開催され、文化学術展も行われるようになった。
1921年
第二回箱根駅伝大会に初参戦
全国的に名を馳せている東京農大の陸上部。その礎は、明治、大正時代を生きた先人たちの活躍によって築かれていった。もちろん、当時から陸上に限らず各種の運動競技が盛ん。学園祭の起源を運動会とする東京農大ならではの特色かもしれない。
1922年
農学に関する図書・資料の殿堂
『図書館』のスタート
大学令による大学昇格問題を契機に、横井学長の882冊をはじめとする多数の図書寄贈があり、それらを保管する書架を設置したのが図書館の発端である。3年後には鉄筋コンクリート3階建ての書庫などが完成し、蔵書も急速に拡充していった。
1925年
大学令による東京農業大学の設立
大学令による大学への昇格をめざし、学校、学生、校友が一丸となって募金活動を起こす。一流の書家であった横井学長も、積極的な執筆を通し活動の先頭に立つ。こうした三位一体の運動が実を結び、財団法人東京農業大学が誕生する。
1926年
学歌の制定
現在の東京農業大学学歌が制定されます。尾上柴舟作詞、山田耕筰作曲である。「土の文化を進めんものと つとめて息まず朝より宵に」のくだりには、学生の意気込みがよく表れています。


1946年
世田谷キャンパスへの移転
戦火により常盤松の校舎を焼失。戦後、世田谷の旧陸軍機甲整備学校跡に移転し、再建に乗り出す。機甲整備学校跡地も荒廃していたが、学徒動員や軍隊生活を体験してきた学生にとって、学問の自由が戻ってきた喜びでいっぱいだった。現在の世田谷キャンパスのスタートは、若者のエネルギーで満ちあふれていた。
1947年
民主教育のスタート
教育基本法が公布され、民主教育がスタート。1949年に学校教育法、私立大学法による東京農業大学となる。農学部に農学科、林学科、畜産学科、農芸化学科、農業工学科、農業経済学科、緑地学科、協同組合学科を擁していた。
1950年
東京農業大学短期大学を併設
当時、文部省の短大認可に対する審査は厳しく、186校の申請のうち、審査に通ったのは113校。4年制大学との併設校ではわずか23校だった。それだけに、特に開設する意義の高い短期大学であったといえるでしょう。開校当初は園芸科、醸造科、農業経営科、造園科、農業科、営林科、酪農科の7科だったが、幾度かの改組を経て、現在の4学科体制となった。


1952年
名物・大根踊り誕生
戦後最初の収穫祭の宣伝。「農大健児はすまないがお米の実る木がついている昔も今も変わらない人間喰わずに生きらりょか」と『青山ほとり』を踊りながら歌い、銀座の街をどっと沸かせた。誰もが飢えていた時代である。1952年には大根を持って踊るユニークなアイデアが出され、名物・だいこん踊りが定着していく。
1953年
大学院に農学研究科を設置
大学院農学研究科を設置。修士課程の農学専攻、農業経済学専攻でスタートした。以来、博士課程の設置、専攻の増設が行われ、全学科に対応した専攻を有するようになり、学問の進展に寄与していくこととなる。またこの年、旧制学部最後の卒業生を社会に送り出し、新制大学一色となる。
1960年
実験・実習を重視する
教育理念の現れ
1998年にスタートした厚木キャンパスが置かれる厚木中央農場の誕生。教職員と学生が一体となって農場建設にあたり、短期間で現在の輪郭を形成した。初代学長が掲げた実学教育の理念を継承し、ほかにも二宮柑橘園、富士畜産農場、網走寒冷地農場、宮古亜熱帯農場、演習林などを充実させていく。


1966年
国際化への第一歩
アメリカ・ミシガン州立大学との間に姉妹校提携を結ぶ。国際化への第一歩といえるでしょう。3名の学生を留学に送り出したのを皮切りに、以後、国際交流プログラムが着々と充実していく。現在の海外姉妹校は14校にまで拡大。
1978年
国内外からの期待も高く
文部省から「発展途上国との学術交流事業」における農学分野の拠点大学に選定されます。国内の多数の国公私立大学の協力を得ながら、インドネシア、フィリピン、タイ、マレーシアの農学系大学と協同研究、人的交流などを行うようになる。1989年には、教育・研究の国際化を推進するための国際交流センターを設置する。
1981年
図書館農業資料室が
博物館相当施設に
図書館の農業資料室が、博物館相当施設に指定されます。戦災をくぐりぬけ、図書館開設以来蓄積されてきた資料は、まさに貴重な存在。このような質の高い資料に囲まれて送る学生生活も、東京農大の魅力の一つである。
1989年
オホーツクに生物産業学部が誕生
動植物・水産資源などの各分野の研究成果とバイオテクノロジー・経営学・情報科学などを総合した学術的研究で、生物産業のすべてにアプローチする生物産業学部が誕生。キャンパスが置かれたのは、豊かな食料資源と大自然に恵まれた北海道・オホーツク。2学部2キャンパス体制となる。生物資源開発研究所なども置かれ、地域と密着した研究も盛んに行われていくようになる。


1991年
創立100周年
榎本武揚による育英黌農業科が創立されてから100年目を迎える。天皇皇后両陛下ご臨席のもと記念式典を挙行。また100周年記念事業として、ジブティ共和国での砂漠緑化へのチャレンジ、パプアニューギニアで農耕のルーツを探る学術調査など、東京農大らしい試みが多数行われた。世田谷キャンパスの100周年記念講堂、18号館建設にも着手し施設の充実も図られた。
1993年
大学院に生物産業学研究科を設置
農学研究科に続き、生物産業学の最高教育機関である大学院生物産業学研究科(修士課程)が設置されます。これを契機に、オホーツクキャンパスにおける研究活動が一層高度化していく。1995年には博士課程も設置認可。
1995年
地方入試の実施
札幌、仙台、名古屋、大阪、福岡の5都市で入学試験を実施(A日程)。世田谷キャンパスでの試験と合わせ、同一学科を2回受験できるようになった。生物産業学部では、B日程でも世田谷、オホーツクの両キャンパス以外の5都市に試験場を設けています。
1998年
農学部を再編成
農学部の改組が文部省に認可されたことにより、4月から大学院農学研究科11専攻、生物産業学研究科1専攻、農学部2学科、応用生物科学部4学科、地域環境科学部3学科、国際食料情報学部3学科、生物産業学部3学科、短期大学部4学科からなる新体制がスタート。21世紀の人類と地球が直面する「食料」「環境」「健康」「資源エネルギー」問題の解決に取り組む体制がより強化された。また、厚木キャンパスが開設され、3キャンパス体制となる。
2001年
創立110周年
記念事業のひとつとして世界学生サミットを開催。
2002年
大学院2研究科14専攻体制に
ISO14001の認証を取得
環境問題に真正面から取り組む大学としてのひとるの証でもあるISO14001の認証を取得。リサイクル研究センター等設置。
2004年
「食と農」の博物館
本学の研究成果や関連分野の最新情報をもとに「食」と「農」に関する一般の方々への啓蒙活動推進と大学のビジターセンターとしての役割を担った「食と農」の博物館が誕生。
2006年
2つの新学科を開設
農学部(厚木キャンパス)に「人間生活をより豊かにする生物の多彩な可能性を追究する」バイオセラピー学科、生物産業学部(オホーツクキャンパス)に「水圏のバイオサイエンスを学ぶ」アクアバイオ学科を設置。
2006年
センター入試利用試験導入、
一般入試制度変更
新たに大学入試センター利用試験を導入(募集人数は約1割)。 また、一般入試は新たに3日間の試験日、試験会場(全12会場)を設け、受験者は各自の都合に合わせ、どの日でも全学部全学科の受験が可能に変更。3日間とも同じ学科を受けることも可能になった。
2006年
農学部にバイオセラピー学科、
生物産業学部に
アクアバイオ学科を開設
2010年
生物産業学部食品科学科を
食品香粧学科に改称
2011年
創立120周年
世田谷キャンパスに
新講義棟(1号館)が完成
2012年
生物産業学部産業経営学科を
地域産業経営学科に改称
2013年
世田谷キャンパスに
農大アカデミアセンターが完成
2014年
応用生物科学部に
食品安全健康学科を開設
2015年
厚木キャンパスに
学生会館(農舞台)が完成
2016年
創立125周年
2017年
新学部、新学科開設
生命科学部にバイオサイエンス学科、分子生命化学科、分子微生物学科、地域環境科学部に地域創成科学科、国際食料情報学部に国際食農科学科を開設
2018年
新学科開設、学科名称改称
農学部に生物資源開発学科、デザイン農学科を開設、畜産学科を動物科学科に改称、応用生物科学部の生物応用化学科を農芸化学科に、生物産業学部の生物生産科学科を北方圏農学科に、アクアバイオ学科を海洋水産学科に、食品香粧学科を食香粧化学科に、地域産業経営学科を自然資源経営学科に改称
2019年
実験実習棟竣工
厚木キャンパスに「実験実習棟」が完成
2020年
新研究科・専攻開設
大学院応用生物科学研究科を開設し、農芸化学専攻、醸造学専攻、食品安全健康学専攻、食品栄養学専攻を設置
「NODAI Science Port」竣工
世田谷キャンパスに4学部15学科の研究室が入る新研究棟 NODAI Science Portが完成
2021年
創立130周年
新研究科・専攻開設
大学院生命科学研究科を開設し、バイオサイエンス専攻、分子生命化学専攻、分子微生物学専攻を設置
大学院地域環境科学研究科を開設し、林学専攻、農業工学専攻、造園学専攻、地域創成科学専攻を設置
大学院国際食料農業科学研究科を開設し、国際農業開発学専攻、農業経済学専攻、国際アグリビジネス学専攻、国際食農科専攻を設置