東京農業大学

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東京農大のあらたな1歩

片岡親一と横井時敬先生

片岡親一氏 横井時敬先生思出

先生の負け嫌ひ

東京農業大學理事 片岡親一

横井博士に就ての、私の感想は色々有りますが、先づ第一に追憶される事は、負け嫌ひで有ります。
私と博士との交渉は、相當長い歳月で有りましたが、主に農大學長としての關係で有ります。
其感想は今尚ほ躍如としてハツキリと追想されます。實の所、私の博士に對する感想は、相當長い間餘り良くなかつたので有ります。
勿論私が博士に交渉ある場合は、多く母校の事件で有りましたから難問題か多かつたのです。
如何なる時でも、多少の無理が伴はない問題はなかつたかも知れません。
即ち校友を代表して同志のの諸君と共に、幾多の難題を折衝したので有ります然し博士は是等の交渉を大概一蹴せられました。
博士は元來剛腹で負け嫌ひで、意地張りで辯も立ちますから大抵の事は何とか角とか理屈を捏ね上げて、擊退するのが常で有りました。
偶には要求を容れてもと思ふ事でも、多少の見解を異にする時は、仲々應じません。
從て吾々も亦是に對抗する丈けの、用意と應戰に努めると云譜結果が、自然良い感じを受けなかつた事と思ひます。
然し私は斯うした時でも、常に負けながらも一面大に博士に敬服する、何物かゞ有りました。
そうして段々永い内に、博士の手口が解かり、後ちには此方から見當を付けて、折衝する様に成つたので有ります。
然し晩年には博士も亦其の鋭鋒を包み、妥協的になられ、吾々も亦昔日の態度を諒解する様に成ました。
然し此の負け嫌の意地張りが、一面大に博士の長所であつて、此の力がなければ、到底農業大學の完成を、期する事が出來なかつたので有ります。
博士が農大の經營に心血を注ぎ、幾多の艱難と多大の犠牲を拂はれ、悪戰苦闘三十餘年に亘り、以て今日あるを致した事は、今更ら申す迄もなく、
世間周知の事でありますと、同時に私は玆に博士の偉大なる性格を認める所以であります。(完)

参考資料:『大日本農會報』第五百六十五號、p.59-60、昭和二年十二月十五日

片岡親一氏 横井時敬先生弔辞

校友總代弔辭

謹みて恩師東京農業大學長正三位勳一等農學博士横井時敬先生の靈前に曰す、先生は我が國農界の先覺者にして帝國大學を始め苟くも農學に關係あるものは敎育上實業上將た政治上何れを問はず先生の薰陶と恩顧とを受けざるものなく殊に生等の母校東京農業大學の完成に盡瘁せられしことは筆舌の能く盡し得る所にあらず母校の前身たる育英黌農學科の東京農學校
となりて大日本農會の經營に移りてより大學令に據る東京農業大學となりし今日に至るまで三十有餘年の苦心惨憺を以て生等を薰陶し給へる鴻恩は實に慈父の愛兒に於けるが如きを覺ゆ生等今日社會の一隅に伍して偶々學生當時を追懐するの時感窮まりて措くこと能わざるものあり然るに先生今春以來健康勝れず七月に入りて病重しと聞き驚愕極りなく日夜御平癒を祈ること切なりしも空しく遂に幽明境を異にし再び温容に接する能はざるに至る嗚呼哀しき哉然りと雖先生多年奮勵努力の結晶として殘されたる母校と生等に垂れ給へる敎訓の精神とは亡びんとして亡びず忘れんとして忘るゝ能はず生等深く先生の遺訓を腦裡に肝銘し鴻恩の萬一に報ひんことを期す在天の靈冀くは照鑑を垂れ給はらんことを玆に四千八百有餘の校友を代表し衷情を披して弔詞を上る

昭和二年十一月四日

東京農業大學校友總代(東京農業大學卒業生總代)
片岡親一

参考資料:『農大新聞』第十五號、昭和二年十二月一日
     『大日本農會報』第五百六十五號、p.81、昭和二年十二月十五日

片岡親一について

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