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応用生物科学部醸造科学科 醸友会

回想「昭和の良き時代」

 私はこの度,平成21年3月末をもって東京農業大学を定年(65歳)退職しました。昭和37年農学部醸造学科に入学し,41年の卒業と同時に同学科に助手として採用していただきましたので,学生時代を含めて47年間東京農業大学でお世話になったことになります。在職中は諸先生方,学科事務員の方々,諸先輩には大変お世話になりました。衷心より感謝とお礼を申し上げます。
退職した今,43年間の教員生活を振り返れば,授業や研究,大学行政,学生指導などの教員業務は人を対象としていることもあって予定通りには進行せず,日々夢中で過ごしたといっても過言ではありません。光陰矢のごとしで,過ぎ去ったことは速く感じられます。これからの老後をどのように過ごすかという問題も然ることながら,過去の出来事が走馬灯のように次々と想い出されます。想い出は辛いことや悲しいことは薄れて,楽しいことや感激したことが強く残りますので都合がよく,この随想も回想となりました。
 醸造業後継者の育成を目的として,昭和25年に短期大学醸造科が創設され,同28年に農学部醸造学科が増設されました。創設者の住江金之先生は,当時は農芸化学科の教授でもあり,醸造両科の科長・教授を兼務されておられましたが,昭和34年に定年退職されました。しかし特例として,大学から学科創設,住江記念館(醸造両科の学科専用棟)建設などの功績により記念館内研究室の生涯使用が認められ,退職後も名誉教授・講師として昭和46年まで若手教員や学生を指導されました。

醸造教育に徹した醸造学科

 住江先生は醸造業の後継者には醸造技術と経営学の両分野の知識が必要であるとの考えから清酒醸造学や味噌・醤油醸造学などの醸造技術科目の他に,簿記学や金融論などの経営関連科目を設けて徹底した後継者教育に努められました。私の同期生は36名の酒組と11名の味噌・醤油組からなり,組別にそれぞれの醸造関連科目の授業を受けました。私は味噌・醤油組で,最初に醸造学科の専任教員になられた永瀬一郎先生(昭和60年健康上の理由により退職)に詳細な講義と実習の手解きを受けました。授業時間割の専門科目の時間はすべて講義に当てられ,空き時間に助手の先生から分析法を教えていただき,常時学生各人が管理している醤油諸味と熟成中の味噌の分析を2週間間隔で行っていました。したがって課外活動を行う時間的なゆとりはなく,実験室に閉じ篭もりきりでした。少人数ですので授業をサボルことなどできず,皆出席でした。当時の醸造学科は実学重視で,校外実習にも力が注がれました。校外実習はカリキュラム外の特別教育で,酒組の学生は2年次と3年次の冬季に1ヶ月ずつ卒業までに2回,味噌・醤油組は同様に春季に2回の工場実習を行うことが全学生に課せられた義務で,現在のような実習の単位などはありませんでした。全員が醸造業の後継者であることを前提に,卒業して即役立つ後継者教育との理解が浸透していましたので先生方の指導も熱心で,学生は醸造技術に詳しく,皆自信をもって卒業しました。昭和35年国税庁醸造試験所長の山田正一先生が学科長・教授として赴任されると,先生の提案で翌年から全国酒類調味食品品評会が開催されました。これまで醸造学科では,酒質の向上と学生の唎酒訓練を目的として毎年在学生と卒業生有志の蔵の酒を集めて諸先生方に評価していただく「唎酒の会」を催していました。この唎酒会を発展させるとともに味噌・醤油も含めて醸造学科主催の全国酒類調味食品品評会として開催したもので,昭和51年まで15年間にわたって盛大に挙行され,好評を博しました。この全国酒類調味食品品評会は,わが国唯一の大学における醸造教育の拠点として社会的に農大醸造学科の名声を高めた行事として,強く心に残っています。昭和50年以降は,醸造学科の門戸を一般に開放して学生数が増えた時期で,カリキュラムも醸造業の後継者教育から脱皮して食品企業の技術者育成に方向転換したことで教員も学生も忙しくなったため,醸造学科で主催するのは負担が重過ぎるということで15回をもって打切りとなりました。このように昭和30~40年代は醸造教育機関として施設や指導体制が整備されるとともに醸造研究も活発化した時代でした。醸造学科教員の一人として遣り甲斐を感じながら業務に専念することができた時代であり,郷愁を感じています。
 昭和39年には東京オリンピックが開催されて高度経済成長期に入り,醸造業も右肩上がりの好況を呈しました。醸造両科には(社)東京農業大学醸造振興会という後援会組織があり,本会の趣旨に賛同する醸造業者と学生の保護者が会員となっていました。住江記念館は5回の増改築をもって完成しましたが,この建設費用も全て醸造振興会が負担し,大学に寄贈されました。学生実験や研究費の支援もあり,学科にとっては醸造振興会様様でした。これも醸造業界が活況であったればこそできた業で,昭和50年代へと続く高度経済成長期は学科の発展にも多大の貢献を果たしました。(社)東京農業大学醸造振興会は平成15年の醸造科学科創立50周年記念事業を最後に,会の役割は終了したということで解散しました。醸造科維持会として発足した醸造科開設時から醸造振興会の業務に関わってこられた米山平先生は平成6年に東京農業大学を定年退職されましたが,その後も醸造振興会の行く末を案じて醸造振興会を担ってくださり,清算業務までお一人で完済して下されました。退職後のことで,責任感の強い米山先生であればこそ為しえた仕事であり,そのご苦労には頭が下がります。米山先生は平成20年3月肝臓がんのため逝去され,醸造科学科の発展に尽力された先生がまたお一人天国に旅たたれました(名誉教授、享年84歳)。

昭和時代の醸造学科の潤滑油はお酒

 学科長の位置づけについて,平成に移行したころから「学科長は名誉職ではなく,学科の全てを掌握した上で学科の運営を積極的に進め,全てに責任をもたなければならない」とする大学の指導が浸透し,学生数が増大した今日では学科長は多忙を極めています。教員全体に共通する悩みは,学生数が多いことと,ゆとり教育の弊害が顕在化してきて学生指導に手間がかかるといった基本的な問題が挙げられています。また,大学院生の増加に伴って研究指導の負担も増加しています。そのような事情で学科長は一期2年で交代することが多くなっていますが,これも現在の農大では止むを得ない事情といえるでしょう。これらの問題について,昭和の時代は学科長職には名誉職的な要素が残っていて,経験豊かな筆頭教授が威厳のあるリーダーとして長期間にわたって学科長を務めていました。換言すれば,学科長の下で学科教員が一丸となって行動する体制が構築されていましたので,鶴の一声で学科運営もスムースに進めることができました。これも学生数が少なかった時代のなせる姿でありましょう。
 私は昭和41年住江研究室の助手として学科教員の仲間入りをさせていただきました。当時は住江先生の薫陶を受けた直属の教員約10名が農芸化学科の住江研究室,醸造学科の住江研究室を中心に栄養学科や農産加工所などに配属されていましたので,住江先生はこれらの諸先生方を掌握するために毎週火曜日の昼に昼食会を開いて,研究の進展状況を把握し,情報の交換と共有に努められました。そのようなことで,後年これらの先生方にはいろいろな場面でお世話になることができました。この時代はまだ大学教員の服務規程などは設けられておらず,全て研究室主任の指示に従って動いていました。当時醸造振興会では住江先生の送迎用としてトヨペットクラウンを所有していました。私は運転手として住江先生の送迎を行っていました。車の中は研究の打ち合わせ場所であり,雑談や薀蓄のある話を聞くことができる個室でもありました。そのようなことで,普段は中々聞くことのできない大先生の話を直々に聞かせていただくことができたことは,何事にも代えがたい貴重な体験であったと感謝しています。住江先生から直接お聞きしたいろいろな情報は,後日私が編纂することになった「醸造科学科創立50周年記念誌」の執筆に際して大変に役立ちました。改めて住江先生にお礼を申し上げたい気持ちです。
 昔から醸造学科の教員には酒飲みが多く,しょっちゅう宴会が催されましたが,数人で私的に飲むことも多く,先輩教員には良くつき合わされた経験も多いのですが,これが人間としての礼儀作法や意思の疎通につながり,潤滑油のような働きをして学科の運営がスムースに運んだ体験は枚挙に遑がありません。小田急を利用して通勤してくる人を会員とした「ピーポー会」、や「一合会」など学科・大学事務局横断的な親睦会も盛んに開催されました。これらの会合は教授から助手,事務員まで無礼講であったため,楽しいひと時でもありましたし,普段接することのない他学科の教授と親しくなるなど,学科間交流においても大変に有益でした。年配者は酒の力を借りて若手に説教をしたり,注意することができたし,若手から文句を言ったりすることもありましたが,酔っ払ったということで後腐れはなく,醸造学科ならではの対処法であったような気がします。これらの体験は社会常識や協調性を養なう上で大いに役立ったような気がいたします。前述の全国酒類調味食品品評会が行われていた時代には,大量の猪口残(唎酒用の茶碗に残った酒)や共洗い酒(唎酒用の茶碗を洗った後で濯いだ酒)などが研究室に分配され るので,学生とも良くお酒を飲みましたし,小人数のため研究室は良くまとまっていました。きっと飲酒によってストレスが解消されていたのでしょう。高度経済成長期は先生方も学生も精神的なゆとりと余裕をもたらした良き時代として懐かしい想い出が沢山残っています。

平成の大学改革

 この項目は平成の話ですが,めまぐるしい大学改革が行われましたので,整理のつもりで書かせていただきました。
 平成2年は大学院醸造学専攻修士課程が開設された年であります。社会では第2次ベビーブーム世代の出生者が18歳に達して大学受験を迎えた年で,文部省では18歳人口の増大に対応するため,設備と教員数が十分に確保されている大学には申請により平成4年度から7年間の臨時定員増を認める措置をとりました。そこで東京農業大学では臨時定員を申請し,醸造学科の入学定員は80名の臨時定員を加えて200名となりました。これは大学経営の安定化を考慮した実員の定員化であって,以降の入学者数は200名とすることで,経営の安定化が図られる見通しが立てられました。臨時定員増は,平成11年度で終了しましたが,設備や教員数を増やして臨時定員増に対応してきた農大としては,臨時定員の返還は大学経営への影響が大きすぎることから文部省が示した段階的削減案(醸造科学科の定員は12年度172名,13年度164名,14年度156名,15年度148名,16年度140名とする)に従うことになり,入学定員の削減が進められました。その結果,平成16年度以降の醸造学科(平成10年度以降は醸造科学科)の入学定員は140名で恒常化されました。 
 また,文部省では大学の多様化を進めるために,平成3年に大学設置基準を見直し,規定の削減,規制緩和を行いましたが,その結果として大学数が大幅に増加して,今日のような大学間で志願者を奪い合うような弊害を惹起するところとなってしまいました。そして学力や資質の低下、成績基準の不徹底など教育,研究面で多くの問題が指摘されるようになってきました。そこで定期的に文部科学省の認可を得た第三者評価機関による大学の自己点検評価を行い,その結果を公表することが義務づけられるようになりました。
 個人や学科の自己点検評価をベースとした学部の自己点検評価報告書が第三者評価機関による審査の対象になります。農大では平成17年に(財)大学基準協会の審査を受けて「大学としての水準を維持している」との認証を得ていますが,全ての大学に7年に一度の審査が義務付けられていますので,次の農大の自己点検評価は3年後ということになります。評価報告書の作成は時間的にも内容的にも大変で教員泣かせですが,法律で定められていますので先生方にはご苦労願うことになるかと思います。
農大自身の改革としては,平成10年に学部学科の再編成が行われました。従来の農学部10学科は,農学部,応用生物科学部,地域環境科学部,国際食料情報学部の4学部に分割され,醸造学科は応用生物科学部醸造科学科に改称され,醸造微生物学分野,醸造技術分野,醸造環境学分野が配置されました。学部学科の再編成につきましては皆様方ご存知の通りであります。

醸造科学科50周年記念誌の編纂

 平成15年に応用生物科学部醸造科学科は創立50周年を迎えました。記念式典や祝賀会などの行事とともに醸造科学科50周年記念誌の出版が計画されました。記念事業の経費は上述の(社)醸造振興会が準備してくれていましたが,編集担当者として私が推挙されてしまいました。醸造科学科開設以来の記念誌の編集で,資料もモデルもありませんでしたので,悩みながらの調査に1年を費やすことになりました。編集と沿革等を執筆するには歴史を掘り起こすことになりますので,醸造学科生え抜きの年長者がこれを担当しなくてはならないと決心して編纂にあたりました。多くの先生方や卒業生にも原稿を執筆していただき,幸いにも「醸造科学科50周年記念誌」として発刊に漕ぎ着けることができました。小生が大学教員として調査・執筆に苦労した記憶として脳裏に焼きついていることが3回あります。その一つは学位論文の執筆です。これは大学教員は皆経験することですので問題外ですが,二つ目がこの醸造科学科50周年記念誌の執筆と編集でした。3つ目は上述の大学評価委員として文部科学省承認の第三者評価機関(財)大学規準協会から指名を受けて関西のK大学農学部の審査を担当し,主査として報告書を書き上げたことです。これも審査と報告に1年を費やしました。いずれも苦手な仕事でしたので大変なプレッシャーを感じましたが,今振り返るとこれらも自分が関わった仕事として記録に残っていますので,苦労を忘れ満足しています。特に50周年記念誌は手元にあって往年の醸造学科の足跡をたどるのに便利で,忘れかけた思い出を確認するのに1年に数回はページをめくっています。
 思い出すことを止め処なく書き綴りましたが,文頭に書きましたように半世紀近い47年間を農大醸造学科でお世話になり,定年万限で退職できましたことを誇りに思っています。
平成21年6月                
(東京農業大学名誉教授)

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