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応用生物科学部醸造科学科 醸友会

醸造科学科と醸造学科の歴史 前編

短期大学醸造科の開設と創設者住江金之先生

昭和25年3月14日、文部省から短期大学の設置が認可され、醸造科は農業科、園芸科、営林科、酪農科、農業経営学科、造園科と共に4月1日に開校した。初代学長には佐藤寛次東京農業大学長が就任した。当初短期大学は7科で発足したが、酪農科、造園科、営林科の3学科は応募者が少なく、4月9日、新入生の募集が停止された。

同年4月24日、第1回短期大学入学式が挙行された。醸造科の初年度入学者は40名の定員に対し、34名であった。初代科長には創設者の住江金之教授が就任した。「醸友」(農大醸友会誌、醸造科創立20周年記念特集号、同45年7月15日発行)には、「創立のころ、あれこれ」と題して創立当初を偲んだ故住江金之先生の随筆が残されている。この中には、酒造業者の三男に生まれ、酒造りを勉強するために東大の農芸化学科に入学したものの、大学では酒造りを教えてくれなかったこと。農大で学生課長を務めていた同24年10月、佐藤学長から醸造科の設置を要請され、断りきれずに実行を決意したときの心境。何の施設もない戦車修理工場跡を実験室として学生を指導した設立初期の苦労話など、数々の逸話が残されている。

特に創始者の信念が感じられるのは、当時は酒、味噌、醤油を含めて全国に8000の醸造業者があり、30年を1世代とすると、子弟が200から300はいるが、半分は女子であるから、男子は100から150である。そのうちの半分は文系希望としても、醸造技術を学びたいのが半分はいるであろう。醸造技術の勉強を希望するものの半分は醸造関係の工学部をもつ大阪大学か広島大学、その他の国立大学の農芸化学科に進学するとの予測から、定員は「80名以上でなければ赤字になる」という大学当局の考えを説き伏せて定員を40名に設定したこと。その代り大学に迷惑はかけないとの信念のもと、学生の父兄には醸造科維持会を組織してもらって授業料の他に1万円の会費の納入をお願いし、設備や実験資材の購入にあてることを考え、醸造科維持会の意見も聞きながら学科を運営したこと。教育内容は醸造業の後継者教育という特色をもたせ、自分が嘗て学びたくて学べなかった醸造家の主人となるための教育を志したこと、等である。

住江金之先生

醸造科発足当初の教育体制

昭和25年4月の醸造科開設に際し、準備を担われた住江金之教授(初代醸造科長)、黒田道行教授(同25年3月~33年5月教 授、退職後は同35年3月まで非常勤講師)、福島耕二主事(~同30年12月)の3先生はいずれも農芸化学科の所属で、醸造科 は兼任であった。事務室も農芸化学科と一緒で、専任は醸造科創設時に採用された永瀬一郎助手(後の教授、醸造科長、同60 年9月、健康上の理由で退職)だけであった。同年9月、茂野みつよ事務員(~同48年3月)、昭和26年6月、松本憲次教授(味 噌・醤油醸造学、同35年6月定年退職)、同年9月、米山平助手(後の教授、醸造科長・醸造学科長、平成6年3月定年退職、名 誉教授)、昭和27年に桜井宏年助手(後の助教授、同48年3月健康上の理由により退職、同58年まで嘱託教授)が専任として加 わった。これらの先生方により醸造科の運営と農学部醸造学科増設の基礎造りが行なわれた。桜井助手は吉村孝一郎講師(簿 記会計学、東村山市の豊島屋本店社長)とともに醸造経営研究室の開設に力を尽された。

醸造科発足当時の教職員
(左から米山助手、福島主事、住江科長、黒田教授、永瀬助手)

授業担当者は住江教授(微生物学、農産製造学)、黒田教授(分析化学)以外は外部の教授・講師で、日本醸造協会所属の 松本憲次教授(味噌醸造学、前記)、元醗酵研究所長の杉山晋朔教授(清酒醸造学、同28年4月~31年1月)、香料化学研究所 長の庄司謙次郎教授(発酵生理学、同28年4月~38年8月)、醸造試験所長の山田正一講師(清酒醸造学、昭和35年10月専任 教授・醸造学科長、同43年9月定年退職)、東京国税局鑑定室長の渡辺八郎講師(清酒醸造学)、醸造試験所の深井冬史講師 (醤油醸造学)など、当時の醸造学分野の超一流の先生方であった(山田、渡辺、深井の3先生は官職にあったため講師)。同27 年4月には醸造試験所大蔵技官の塚原寅次講師(後の教授・醸造学科長、同60年3月定年退職、名誉教授)が参画された。塚 原先生は非常勤でありながら、講義科目(発酵学総論等)の他、醸造学実験実習を担当されるなど、学生の教育に対しては特に 心血を注がれた。

醸造科教育の特色は実学で、身をもって体験する実験実習が重視された。現在も実施されている食品特別実習は、醸造科発 足の初年度から開始された。当時の校外実習はその期間も1ヶ月以上と長く、在学中必ず全員が2回工場に寝泊りして醸造技術 のみならず、社会勉強も兼ねた実習を体験することが義務付けられていた。しかも何の報酬も単位も貰えなかったのであるから、 現在では到底考えられない教育手法であった。それでも皆この校外実習を経験したのであるから、醸造科の学生として、目的意 識が強かったと言うことができる。


農学部醸造学科の増設と農大醸友会の結成

昭和26年3月5日、学校法人寄付行為設置が認可され、学校法人東京農業大学が誕生した。同年10月13日、学校法人理事会 が開かれ、短期大学醸造科のみでは、経営・経済面に不備をきたしており、さらに高度の醸造学科の新設が必要であるとの理由から農学部に醸造学科を増設することが決定され、入学定員40名で翌年から募集することになった。しかし、文部省の対応に手 間取り、醸造学科の増設は1年遅れて同28年1月31日にようやく認可され、同年4月1日から開設されることになった。そのため、 醸造科1期卒業生のうちのかなりの人が醸造学科の開設が待ちきれずに農芸化学科や農業経済学科に進学した。農業経済学 科に進学した人の中には醸造学科が開設されると再び醸造学科に戻ってきた人もいたようである。初年度の入学者は18名、短期大学醸造科からの編入学者は8名であった。初年度入学者の中には、醸造学科卒業後、醸造学科の教員となられた竹田正久 (後の教授、醸造科長・醸造学科長・醸造学専攻主任、平成15年3月定年退職)、宮本守(後の助教授、平成9年8月30日現職中 他界)の両新入生がいた。

昭和28年頃の実験実習風景(背広姿は塚原寅次先生)

醸造学科長は短期大学醸造科長の住江金之教授が兼任した。昭和30年には立正大学前教授の緑川敬先生(醸造経営学、 後の醸造学科長、同54年3月定年退職)が専任教授として着任され、醸造(学)科の陣容が整えられた。米山先生は福島主事の 後任として、助手時代の同30年12月から同43年までの13年間にわたって主事を務められ、醸造両科の基礎造りに貢献された。 短期大学醸造科教員の他、新たに非常勤として吉村幸一郎講師(醸造経営学)、平尾菅雄講師(食品学)、歌川貞忠講師先生(簿 記学)、勝目英講師(機械学)、小野英雄講師(酒精学)が授業を担当された。

短期大学醸造科1期生が卒業した直後の4月に農大醸友会が結成された。同28年6月に開催された1・2期生の総会において規 約が作られ、12月30日に農大醸友会誌創刊号が発行された。農大醸友会の会員は、醸造両科の卒業生、在校生並びに教職員 で、その目的は醸造技術や経営に関わる情報交換、相談、連絡等の窓口機関として、また会員相互の親睦を図ることであった。 以来農大醸友会は今日まで醸造両科と共にその活動を続け、学科の発展に多大な貢献を果たしている。

農大醸友会誌創刊号

同31年6月、坂井劭助手(農芸化学科卒、後の教授・短期大学部長、平成14年3月定年退職、名誉教授)、同32年、醸造学科卒 業の竹田正久・宮本守(前記)両助手、同33年には柳田藤治助手(後の教授、醸造科長・醸造学科長・醸造学専攻主任、平成 14年3月定年退職、名誉教授)が加わり、指導体制が一段と強化された。


住江記念館の建設

設備も教員も不十分な中で発足した醸造科の運営は苦しく、大学から当てられる学科経費のみでは十分な実験実習指導ができないことから、住江科長の構想通り醸造科開設の当初 から醸造科維持会(初代会長は宮井孝一氏)を組織して、父兄からの会費を教育と研究の支 援に当ててもらっていた。そのような中で、醸造科創設者住江金之先生の定年が近いこともあ って、先生には退職後も研究を続けていただけるような、また、醸造科の教育や醸造相談など 一般醸造家のためにもなるような建物を造ろうという機運が高まり、元八日市場市長の宇野儀 助氏が記念館建設会長となり、全国各地の卒業生、在学生父兄を対象に募金活動が展開さ れた。募金には約10名の教員が分担して全国各地の家庭や業者を訪ねるなど、大変な努力 が注がれた。そして昭和33年4月25日に学科専用の建物としては、本学で初めての鉄筋コン クリート造り2階建(一部1階建)の住江記念館(総面積600.66㎡)が竣工し、落成式が行われ た。住江記念館には醸造科事務室、住江教授室、同研究室、図書室、醸造博物館、醸造器 機試験室などが設備され、その後の醸造教育の拠点となった。

竣工当時の住江記念館

住江金之学科長の退任と東京農業大学醸造振興会の活動

昭和34年6月、醸造学科長・醸造科長の住江金之教授が定年により退職した。住江先生は醸造科・醸造学科の創設、住江記念館の建設・大学への寄付などの功績により、大学から記念館の生涯使用が認められるとともに、退職後も大学院農学研究科農芸化学専攻の嘱託教授、醸造学科の非常勤講師として学生を指導された。先生の退職に際し、同35年5月10日、大学から名誉教授の称号が授与された。

同年6月25日には住江記念館前に先生の胸像が完成し、除幕式が行われた。胸像の建立は、住江記念館の完成をきっかけに、醸造科維持会(後の醸造振興会)の筒井松男会長の発案によって進められたもので、東京農業大学百年史には「当初 は先生の存命中に胸像を建立することが問題となったが、本人の許可を得て東横デパート内の胸像製作工房に依頼した。制作費は全て維持会が負担し、同窓生からの募金はなかった」と記されている。

また、当日は醸造科維持会が進めていた住江記念館3階の増築(304㎡)と同2号館(2階建研究室189.61㎡)の新築工事が完成し、落成式並びに醸造科創立10年祝賀式典が挙行された。増築された3階部分は醸造博物館、新築の研究室部分の 1階は学科長室、山田研究室(後の酒類第一研究室)、味噌・醤油研究室(後の調味食品研究室)、2階は経営研究室(後の醸 造経営研究室)、図書室、演習室として使用されることになった。

醸造科維持会は、同37年3月に「社団法人 東京農業大学醸造振興会」に改称され、醸造振興事業の他、50年の長きにわたって醸造学科・醸造科の教育・研究を支援し、現在の応用生物科学部醸造科学科・短期大学 部醸造学科を育て上げた。この間の醸造振興会の理事長は初代筒井松男氏(横浜醤油社長、同37~52年)、第2代白相栄一 郎氏(白相酒造社長、同53~平成2年)、第3代伊矢野誠一氏(伊矢野九兵衛商店社長、平成3~現在)で、常に醸造両科の 発展を見守っていただいた。

この度の醸造科学科50周年記念事業を最後に、醸造科維持会時代から続いた醸造振興会は50年の節目をもってその役割 を果たしたとして、平成15年度末で解散することになっている。醸造振興会は昭和46年までに5回にわたって住江記念館の増 改築工事を行ない、醸造博物館を含む3階建ての住江記念館を完成させ、いずれの工事部分もすべて大学に寄付された。改めてその偉大な功績に感謝するとともに、御礼を申し上げる次第である。


調味料製造夏期大学講習会の開催

昭和34年7月20日から8月5日までの17日間、醸造学科主催の第1回調味料製造夏期大学講習会が開催された。その目的は、味噌醤油業界における戦後のめざましい技術的変革に対し、醸造科10年の教育経験を生かして業界の発展に寄与するとともに、農大の内外に対して、醸造両科の存在を宣伝する意味が含まれていた。農大醸友会誌2巻1号(同34年)に第1回講習会の模様が掲載されている。

「本講習会の特徴とするところは、(1)空理空論を避けて真に実際に役立つ講義を行い、講師は実際家の権威者を網羅したこと。(2)さればといって学理は決して忽せにせず、徹底的になる解説に努めたこと。(3)各科目の大半に亘り実習を行って、一層の理解に便ならしめたこと。(4)味噌醤油だけでなく副業として適当と思われる問題を選んで受講せしめたこと。(5)工場経営、? 味指導、醸造機械の講義をも配し、機械材料その他の展示をも行ったこと」等である。

参加者は北海道から熊本・宮崎までの49名で、講師には著名な専門家を揃えていた。内容及び講師の担当は、味噌では 原料処理法(湯川茂雄)、製麹と仕込み(松下善一)、温醸法(深井冬史)、微生物添加仕込法・酵素剤使用仕込法(松本憲 次)、防湧防黴法(河村守泰)、強化味噌(稲森道三郎)、添加物の話(岩村猪之吉)、味噌の機械(田中実蔵)、醤油では原料処 理法(松本憲次)、速醸法(深井冬史)、新堆積仕込の理論と応用・工場管理(鳥居嘉夫)、醤油酵母・乳酸菌の使用法(木村延二郎)、アミノ酸液製造法と含糖法(丸田秀三)、新式二号法の改良法・味液の醤油化方法・加工料の話(永瀬一郎)、醤油の機 械(福田槌三)、その他では、ソース・シロップ(小崎道雄)、食酢(住江金之、横井弘)、乳酸飲料(浅利喬泰)、漬物(住江金之)、「だし」のもと(永瀬一郎)、などで、講義の他、各種の製造実習や微生物実験、分析実験等が組まれ、内容も充実していた。

この講習会は毎年開催され、6回にわたり同39年まで続けられたが、受講者の漸減によりその後は中止された。

昭和35年6月、味噌・醤油研究室を指導してこられた松本憲次教授が定年退職された。先生は温厚な性格で学生からも慕われ、退職後も同43年3月まで非常勤講師として勤められた。


山田学科長の就任と全国酒類調味食品品評会の開催

昭和35年10月1日、醸造科開設の当初から「清酒・酒類」を担当されてきた山田正一講師(前醸造試験所長)が農学部醸造 学科教授として着任、農学部醸造学科長・短期大学醸造科長に就任した。先生は以前醸造試験所で開催していた全国清酒 鑑評会が中止されたままであることを残念に思われていて、農大で酒類と調味食品の品評会を開催することを提案され、同36年6月の学科会議で実施が決められた。その背景は次の通りである。

全国清酒鑑評会は、戦前には醸造試験所において日本醸造協会の主催で明治の末年より隔年ごとに昭和13年まで続けら れたが、戦争により中止された。戦後は醸造試験所において日本酒造組合中央会の主催で行われたが、僅か3回で打ち切りとなってしまった。

一方、農大の醸造学科では毎年秋に在校生及び卒業生有志の自家の酒について150点前後ではあったが、先生方に?酒・ 採点・評価をして貰い、さらに学生全員が?酒してその訓練を通して酒質の向上に役立てて来た。そこで、これまで農大の醸造学科だけで行われてきた?酒会を拡大して農大醸造学科独自の全国品評会を行うことになった。

第1回全国酒類調味食品品評会(会長:住江金之名誉教授、酒類の部審査長:山田正一教授、調味食品の部審査長:松本憲次講師)は、10月のはじめに醸造両料職員の任務分担が決められ、塚原寅次講師が酒類、永瀬一郎助教授が調味食品の 責任者となって準備が進められた。4年次学生にも開梱、整理、暗番、出品、陳列、計算、接待等の各係りに分かれて手伝い を願った。一般公開は農大収穫祭に合わせるため、審査に先駆けて11月2日と3日に行なわれた(収穫祭は10月4日三浦肆玖楼学長が逝去されたため、中止された)。審査は11月9日と15日に調味食品、酒類それぞれ実施され、11月28日に授賞式 が挙行された。出品点数は清酒192点、醤油36点、味噌25点、食酢4点であった。

同品評会は、回数を増すごとに出品点数が増加し、毎回、清酒等の酒類が500点以上、味噌・醤油等の調味食品が300点 以上出品され、醸造業界にも定着して品質の向上と業界の活性化に貢献した。しかし、学生数が年々増加し、準備要員としての若手教員が多忙になるとともに、醸造学科の教育内容も醸造から少しずつ食品分野に広がり、次第に醸造学科の教員と 学生の理解が得られにくくなったため、同51年の第15回をもって中止された。


実験室・実習作業室の拡充

昭和36年醸造両科専用の実習工場(198.35m²)が住江記念館裏の学生実験室(旧陸軍の戦車修理工場・現在の6号館) 北側(現在の8号館の位置)に移築され、ここで醸造物の仕込みや各種の実習が行なわれた。この実習工場には、作業場、酒用・醤油用の各麹室(こうじむろ)、原料室、脱衣室、宿泊室の他、実習に必要な各種の機器が設備されていた。

同37年6月、総合研究室(現在の2号館・12,017.31m²)が完成し、3階グランド寄りの6室が醸造学科に割り当てられ、塚原研究室(後の醸造微生物学研究室)、庄司研究室(同40年に廃室)、醸造学科3年生・醸造科2年生の酒組・醤油組の学生実験室として使用された。

同38年9月、住江記念館2号館の3階増築工事が完成した。経営研究室(後の醸造経営研究室)が同館2階から3階に移り、2 階は実験台を設備して山田研究室(後の酒類第一研究室)と住江研究室(後の食品加工研究室)で使用することになった。

同43年11月、学生数の増加に伴う研究室の拡張工事として、住江記念館2号館正面右側に3階建研究棟(延297.52m²) が完成し、1階を調味食品研究室、2階を食品加工研究室、3階を醸造経営研究室で使用することになった。

同46年、醸造科創立20周年記念事業として住江記念館西側の1階部分を増改築して2階建て(地下1階)とし、学生が利用 できるようにするための工事が行なわれ、3月に竣工した。地下室部分(76m²)には酒類貯蔵庫、低温室、1階部分は機器分析 室、1・2年次学生のロッカー室、2階部分は資料室、閲覧室、印刷室、醸造標本室が設けられた。住江記念館は、これらの5 期にわたる増改築を経て完成し、平成12年の醸造科学科(旧農学部醸造学科)が2号館に移転するまでの42年間にわたり、学科運営の拠点となった。

昭和53年6月20日、住江記念館の西隣に7号館(鉄筋コンクリート地上4階建、地下1階建・6,533.58m²)が完成し、4階が醸 造両科の専用となった。醸造両科はこれまで、住江記念館、6号館、2号館に分散していて不便を強いられてきた。7号館4階にはこれまで2号館の3階にあった醸造微生物学研究室、酒組・醤油組の実験室及び6号館の学生実験室の全てが引越し、醸造両科は住江記念館と7号館4階にまとめられた。


醸造科創立20周年記念式典・祝賀会

昭和43年9月30日、醸造学科長として8年間学科の発展に尽力された山田正一教授が定年により退職(退職後は大学院農芸化学専攻の嘱託教授として学生を指導)した。同年10月1日、緑川敬教授が醸造学科長・醸造科長を兼任した。同日、前醸造試験所長の鈴木明治先生が醸造学科教授として着任、鈴木教授は同44年4月1日短期大学醸造科長に就任した。 

同45年6月27日、醸造科創立20周年記念式典及び祝賀会が、それぞれ住江記念館3階と大学図書館1階で挙行された。式典は緑川敬学科長の挨拶に始まり、東京農業大学理事長・学長代理小野三郎常務理事、国税庁醸造試験所々長代理野白喜久雄氏(後の醸造学科教授・学科長)、日本酒造組合中央会桃井直造副会長、日本醤油技術会渋谷芳一氏、全国味噌工業協同組合連合会宮地和夫氏、東京農業大学醸造振興会筒井松男理事長、醸造学科卒業生代表君塚七郎氏の祝辞が続き、次の方々に感謝状・表彰状が授与された。

醸造科創立20周年記念式典

感謝状(敬称略):住江金之、筒井松男、山田正一、松本憲次、黒田道行、福島耕治、江上繁一、吉村孝一郎、庄司謙次郎、勝目英、深井冬史、飯田喜雄、浅利喬泰

表彰状(敬称略):永瀬一郎、茂野みつよ、米山平、塚原寅次、緑川敬、桜井宏年、坂井劭、宮本守、竹田正久、柳田藤治

祝宴は鈴木明治醸造科長の司会で、住江金之先生、坂口謹一郎先生のスピーチ、松本憲次先生の乾杯に始まり、朝井勇宣先生の万歳三唱で幕を閉じた。

住江金之先生が醸造科を創設され、学科長を務めた最初の10年を草創期とすれば、山田正一先生が学科長を引き継いだ次の10年は醸造学科の発展期で、わが国唯一の「醸造」を学科名とした高等教育機関としての名を全国に知らしめた。多くの卒業生が醸造業界で活躍し、醸造学科に対する信望と教育・研究への期待が高まった時代であったといえよう。即ち、これまでの20年間は学生数40名の醸造業後継者の育成という特殊性の高い専門教育に徹した時代であり、設立時に描かれた将来構想に沿って極めて順調に発展し、20歳を迎えたということができる。

しかしながら、東京農業大学における学科体制からすれば、大学の経営や社会の要請をないがしろに、いつまでも学科の希望する少人数教育を続けることは許されず、昭和41年には醸造業後継者以外の一般の志願者に門戸を開放して入学者の実員を2倍の80名 (入学定員は40名) に増加した。

同46年10月27日、小野三郎東京農業大学常務理事が学校法人東京農業大学理事長、平林忠教授が第7代東京農業大学長・同短期大学長にそれぞれ就任し、理事長、学長が分離して専任化された。

同47年8月19日、短期大学醸造科・農学部醸造学科創設者の住江金之名誉教授が逝去された(享年83歳)。同48年3月31日、 醸造経営学の指導・研究の分野で醸造学科開設時から発展期に活躍された桜井宏年助教授が健康上の理由により退職した。 退職後は、同50年3月までは嘱託助教授、その後は同教授として同58年3月まで醸造学科の発展に尽力いただいた。


学生数の増加と専門教育の転換

昭和49年5月1日、永瀬一郎教授が短期大学醸造科長に就任した。3年後の同52年4月1日、塚原寅次教授が農学部醸造学科長、米山平教授が短期大学醸造科長に就任し、両科の運営が引き継がれた。

同50年7月5日、鈴木隆雄教授が第8代東京農業大学長・同短期大学長に就任した。
18歳人口は同41~43年(第一次ベビーブーム世代)に240万人に達した後、減少に転じ、同51年には150万人にまで減少したが、大学・短大進学志願率は逆にこの間に34%から48%に上昇した。醸造学科の入学者数は同41年以降、47年までは80名でほぼ一定であったが、48年以降志願者数が増加し、53年には600名を超すまでになった。これに伴い入学者数も漸増し、110~120名で恒常化するようになった。大学では実員と入学定員とのギャップを埋めるため入学定員増を文部省に申請し、同51年に 正式に40名から80名への増員が認められた。

同51年には大学の組織及び職制が変更され、これまで醸造学科に設置されていた5研究室を分割・強化した醸造学科・醸造科 共通の8研究室(発酵食品、醸造食品化学、発酵化学、醸造公害、醸造微生物、酒類、調味食品、醸造経済)体制で教育・研究 が進められることになった。同時に研究室講座制が採用されて教育指導面での専門化が進み、それぞれの研究室の責任で専門 分野の教育・研究指導が行なわれるようになった。

同52年には、これまでの醸造技術・醸造経営学を中心とした後継者教育から食品製造・流通・販売、発酵工業界等への就職を 考慮した教育に転換すべく、カリキュラムの全面的な見直しが行なわれた。新カリキュラムでは「醸造学各論1、2、3」のように講義内容が不明確な講座名を「清酒製造論」、「醤油製造論」等の具体的な名称に改めるとともに「食品化学」、「食品衛生学」など食品の管理に必要な科目を追加した。

醸造学科の教育目標は、学科創設以来醸造業自営者の人材育成にあり、後継者として必要な科目は積極的に取入れられたが、直接醸造に関係のない科目は不必要として除外されてきた。その代表的なものが教育職員免許状であった。即ち、就職希望者がいない時代には教員の資格を取得するための教職課程科目を受講させる必要はなく、その時間を後継者教育の充実にあてた方が良いと考えられたのである。そのため東京農業大学では同27年以降教職課程が設置されていたにもかかわらず、醸造学科の学生は教員免許が必要になってからも長い間受講資格が認められなかった。農学部醸造学科が中学校1級および高等学校2級理科の教員免許状授与の所要資格を得る正規の課程として認定されたのは同55年度の入学生からで、それ以前の学生には教員の道が閉ざされていたことになる。このことは当該学生のみならず、学科にとっても大変な痛手であった。

そのような反省から、同52年のカリキュラム改正では、食品衛生管理者、同監視員養成施設としてその資格が得られるようにしたいとの考えで、「化学」の付いた教科目を多く盛り込み、厚生省に掛け合う等の努力がなされたが、その努力は実らなかった。 食品衛生管理者の資格は食品衛生法で医学、歯学、薬学、獣医学、畜産学、水産学、農芸化学の課程修了者、または厚生大臣の指定した養成施設を修了した者となっており、東京農業大学ではすでに前者として畜産学科と農芸化学科、後者として栄養学科管理栄養士専攻が認定されていて、醸造学科まで養成施設として認めることはできないとの厚生省の説明であった。


短期大学醸造科の科名変更問題

昭和53年3月31日、鈴木明治教授が定年退職し、同年4月1日後任として前醸造試験所長の野白喜久雄先生、前愛知県食品工業試験所発酵食品部長の好井久雄先生が、農学部醸造学科教授として着任した。野白教授は鈴木明治前教授の後任として、また好井教授は醸造両科共通8研究室制度により新たに設けられた「醸造食品化学研究室(後の調味食品科学研究室)」における食品化学、食品衛生学分野の研究指導者としての招聘であった。

同54年3月31日、定年により醸造学科長緑川敬教授が退職し、同年4月1日、野白喜久雄教授が農学部醸造学科長に就任した。同年12月18日西島英雄講師が現職で他界した(享年37歳)。西島講師は、同47年4月に食品加工研究室から調味食品研究室に異動し、将来の活躍が期待されていただけにその死が悔やまれた。

同56年4月1日、柳田藤治教授が短期大学醸造科長に就任した。同年10月1日、菊池修平講師が総合農産製造実習所から短期大学醸造科に移動し、調味食品研究室の所属となった。

同年7月16日、西郷光彦教授が学校法人東京農業大学理事長に就任した。
短期大学醸造科の入学者数を振りかえると、同25年に定員40名で発足した短期大学醸造科の新入生受け入れ人数は、同48年までは40~50名で開設当時とほぼ同数であったが、農学部醸造学科の場合と同様に経営面 で大学からは入学者数の増員が要請され、同50年に80名に増やした。しかし、この時期の醸造科の志願者数 は100~200名で低迷しており、何としても志願者数の増加を図る必要があった。

そこで、醸造学科・醸造科をPRする目的で「伝統を現代に生かす醸造科学 -ミクロの世界は招く-」と題する学科案内を作成して全国各地の高校に送付するなどの努力がなされたが、志願者数の増加に繋げることはできなかった。志願者数の低迷は醸造科の存続を左右する重要問題であり、その増加を図ることは至上命令であった。両学科で検討した結果、農学部醸造学科と短期大学醸造科はいずれも醸造業後継者の人材育成を教育目的としている点で競合しており、醸造科の科名変更が必要であるとの結論に達した。新しい名称として「醸造・食品化学科」が良いということで、柳田藤治科長から釜野井短期大学部長に伝えられ、科名変更問題は大学レベルで検討されることになった。この案件は短期大学教授会の教学委員会(高橋久男委員長)に諮問され、同56年12月の教授会でその答申案が承認された。


教学委員長 高橋久男

醸造科の科名変更について(答申)

先に本委員会に付託された、醸造科を「醸造・食品化学科」に変更することについて種々検討の結果、下記の結論を得ましたので答申します。

文部省に問い合わせたところ、「醸造・食品化学科」は醸造科と同一内容の学科として認
め難いとの回答がありました。したがって、この科名に変更することは難しいと判断されます。また「醸造食品科」と変えることについては、カリキュラムに変更がない限り認められると思います。


結局、醸造両科の提案は見送られることとなった。
同56年7月小野三郎理事長に代わって西郷光彦教授が学校法人東京農業大学理事長に就任した。職員公報第96号(同57年3月29日)には、農学部、短期大学の当面する問題として次のような西郷光彦理事長の施政方針が掲載されている。   
農学部については、「仮称食品工学科の設置を醸造学科の体質改善と連動させるべく、すでに企画部会に諮問している」。短大醸造科についても「農学部のところで申し上げているように醸造に関する部分につては目下食品工業科学的構想の中で、従来の伝統を継承しつつ発展させることができないものか企画部会に諮問している」。 
このように、醸造科科名変更問題は教授会のみならず、法人評議員会においても検討された。
しかし、具体的な醸造両科の体質改善策は打ち出されることはなく、しばらく混迷状態が続いたが、同58年にはバイオテクノロジーブームが到来して志願者数が増加したため、醸造科科名変更問題はいつしか立ち消えるところとなった。


バイオテクノロジーブームに伴う志願者の増加

昭和58年4月1日、好井久雄教授が農学部醸造学科長、同60年4月1には竹田正久教授が短期大学醸造科長に就任した。

同58年度の一般入試・推薦入試を合わせた農学部醸造学科の志願者数は629名であったが、同60年度は前年に引き続いて増加し、1,245名と過去最高となった。これは取りも直さずバイオテクノロジーブームの賜であった。わが国において古くから微生物や酵素を巧みに利用して酒類や調味料を製造する醸造技術がバイオテクノロジーの原点として見直され、遺伝子組み換え技術や細胞融合技術、バイオリアクター技術の習得を希望する生物系大学の受験生に注目されたことが志願者増に繋がったとみることができる。志願者の増加は社会の要請であり、東京農業大学として設備や教員の充実と入学者数の増加を満たすための努力がなされた。入学者の実員は同53年以降110~120名で恒常化していたため、再び入学定員増を文部省に申請し、同62年には120名定員となった。志願者の増加はこの後も続き、同63年には1,617名に達した。

大学では生物学を基礎とするライフサイエンス、バイオマス関連分野の基礎を充実させるため、同年学科専門科目外に全学共通のバイオテクノロジープログラム関連科目を開設した。同年4月、北海道網走市に生物生産学科、食品化学科、産業経営学科からなる生物産業学部が開学したが、技術系の2学科はいずれもバイオテクノロジー技術を生物生産または食品の加工や開発に応用することが申請内容の骨子となっていた。

バイオテクノロジーブームは短期大学醸造科の志願者増にも繋がり、同58年の161名から同60年の314名へと大幅に増加した。特徴的なのは女子学生の増加であり、入学者数に占める女子学生の割合は31%から58%へと増加し、他短大と同様に女子学生が過半数を占めるようになった。この主たる要因は、首都圏における自宅通学生の増加と女子の大学・短大進学指向の 向上であり、この傾向は現在まで続いている。

志願者数には直接関係しないが、この時期には短期大学の改組が行なわれたので、これについても触れておく。平成2年3月29日、東京農業大学短期大学を東京農業大学短期大学部とする名称変更が認められ、同年4月から「短期大学部」と称することになった。同4年、農業科の改組により生物生産技術学科と環境緑地学科の2学科が誕生し、醸造科を醸造学科、栄養科を栄養学科にする名称変更が認められ、短期大学部は4学科体制となった。

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