東京農業大学

Web情報検索
文字の大きさ特<-大->戻
東京農大の教員がキミを学問の世界へナビゲート!

ボツリヌス毒素の体内侵入戦略

世界最強、毒素複合体の構造解明

生物産業学部食品科学科 教授 丹羽 光一

ボツリヌス毒素は、ボツリヌス菌が産生するタンパク性の神経毒である。ヒトや動物の体内に取り込まれると、神経末端が筋肉に接続する神経─筋接合部に作用し、神経末端からアセチルコリンという神経伝達物質が放出されるのを阻害する。すると筋肉は収縮することができず、色覚異常、歩行異常などの神経症状が出て、重症だと呼吸ができなくなり死に至る。ボツリヌス毒素は単純計算では1gで100万人以上のヒトを死亡させる能力がある。その殺傷力はあの悪名高い毒ガス兵器“サリン”の1万倍、青酸カリの実に100万倍と言われ、ボツリヌス毒素が世界最強の毒素と呼ばれる所以である。

 

ボツリヌス食中毒の発生状況

ボツリヌス毒素は、AからGの7つの血清型に分類され、A、B、E、F型はヒトに、C、D型は家畜やトリにボツリヌス中毒を引き起こす。ボツリヌス菌はグラム陽性偏性嫌気性菌で、“芽胞”という胞子の状態で海岸部や湖沼の土壌中で休眠している。嫌気的な条件、すなわち酸素がなくなると、休眠から目覚めて栄養型になり、ボツリヌス毒素を産生する。

ボツリヌス菌は食中毒の原因菌として知られる。日本では、北海道特産の“いずし”や類似した魚の発酵食品が原因食品となることが多く、北海道、青森など北日本での中毒例が多い。魚に芽胞の状態で付着していたボツリヌス菌が、漬け物となり酸素がなくなると目を覚まし、毒素を産生するのだ。日本では1951年、北海道岩内町でボツリヌス中毒が初めて報告された。原因は自家製のいずしであった。それ以来現在までに500件以上の食中毒報告例があり、死者は百十数名に上る。比較的最近では1984年、熊本県の名産カラシレンコンを食べた人がボツリヌス中毒にかかり、死者11名を出した事件が大きく取り上げられた。

ボツリヌス食中毒は他の食中毒に比べ致死率が高いのが特徴で、平均すると致死率20%にもなる。ただし現在では抗血清による治療法が確立されており、1986年以降死亡例はない。また、食中毒事例も2000年以降は2006年、2007年に1件ずつ報告があるのみで、発生頻度が激減しているのはよいことである。

 

ボツリヌス毒素複合体立体モデル

ボツリヌス毒素は分子量150キロダルトンのタンパク質である。ここで不思議なのは、タンパク質ならば、口から食べたときには胃の酸や小腸の消化液でアミノ酸にまで分解されてしまうはずである。人も動物もそのような仕組みで大きなタンパク質を栄養とすることができる。なぜボツリヌス毒素は消化されないのか?実はボツリヌス毒素はその本体である“神経毒素”だけで存在することはなく、他の4種類の無毒タンパク質と結合している。すなわちボツリヌス毒素は毒性のある神経毒素と、毒性のないタンパク質が結合した毒素複合体で、NTNHAはボツリヌス神経毒素を消化から守る特殊なタンパク質である。ボツリヌス毒素は、“よろい”で身を固めていたのである。

神経毒素の構造と機能は、非常によく研究されてきた。しかし、毒素複合体を形成する、神経毒素以外のタンパク質に関する研究は大変少ない。神経毒素にいくつの無毒タンパク質が結合しているのか、タンパク質のどの部位(アミノ酸)でタンパク同士が結合しているのか、全くと言っていいほど分かっていなかった。そのため驚くべきことに、ボツリヌス毒素複合体は、タンパク質研究の基本である“分子量”さえ不明だったのである。

筆者が所属する生物産業学部生物化学研究室では、大山徹教授と渡部俊弘教授が長年にわたりボツリヌス毒素の無毒タンパクの構造を追い続け、ついに2006年、電子顕微鏡によりボツリヌス毒素複合体の姿を撮影した。そして、エックス線結晶回折という方法と合わせて、ボツリヌス毒素複合体が示すような実に不思議な構造をしていることを世界で初めて明らかにした。

 

神経毒素の “運び屋”

神経毒素に直接結合しているNTNHAというタンパク質は、神経毒素を胃酸や消化液から保護する役割を持つことが明らかとなってきた。しかし、その他の、この奇妙に外に突き出たタンパク質は何をしているのだろうか? 毒素複合体は、もしかしたら神経毒素単独よりも腸から体内に侵入するのに都合がよいのではないだろうか? ボツリヌス毒素は、小腸の小腸上皮細胞を通って、体内に取り込まれると考えられている。筆者は、この小腸上皮細胞という細胞に着目した。

ボツリヌス毒素が小腸から吸収されるときには、まず細胞に結合しなければならない。培養したラットの小腸上皮細胞に結合した神経毒素、毒素複合体を免疫染色法という方法を用いて可視化したものをみると、毒素複合体は、神経毒素単独よりも明らかに多く結合していた。また、結合だけでなく、小腸上皮細胞に対する透過量も、毒素複合体のほうが数倍大きいことが分かった。さらに様々な実験から、このような小腸からの毒素の効率的な吸収には、外側に突き出た6つのHA─33というタンパク質が、最も役立っていることを筆者は明らかにした。

ボツリヌス菌は、神経毒素を消化から保護し、腸にくっつき易くするタンパク質で神経毒素を体内に効率よく送り込んでいたのである。

 

家畜ボツリヌス中毒予防のヒント

小腸上皮細胞の表面には、ガラクトースやラクトースなどの糖が鎖状に生えており、糖鎖と呼ばれている。筆者らは、毒素を細胞へ結合させるときに、様々な糖と混ぜ合わせてみた。すると、毒素複合体は、シアル酸という糖と混ぜ合わせることで細胞に結合しなくなった。細胞表面にあるシアル酸に結合する前に、混ぜ合わせたシアル酸と結合してしまったためである。このことは、ボツリヌス毒素複合体が、小腸にあるシアル酸に結合して体内に侵入することを意味している。

人ではボツリヌス中毒の発生件数は減っているが、最近はウシのボツリヌス中毒が増加しており、2004年から2008年までに8県で350頭を超すウシが斃死または廃用となった。ウシの飼育には、サイレージという牧草を発酵した飼料が使われており、この中でボツリヌス菌が増殖したものと考えられる。同じ飼料で飼育するため、大量のウシが犠牲になることが多く、畜産農家の経済的損失は大きい。ここで、もし、ボツリヌス中毒の危険があるウシの飼料にシアル酸を混ぜておけば、腸からのボツリヌス毒素の吸収が抑制され、ボツリヌス中毒を防げる可能性がある。ボツリヌス毒素の吸収機構の研究は、ヒトだけでなく家畜のボツリヌス中毒の予防にも役立ち、食料の安定供給に寄与すると考えている。

 

毒素の有用性と研究者の責任

ヒトや家畜の食中毒の原因となる一方、ボツリヌス毒素は「ジストニア」という疾病の治療薬として使用されている。ジストニアとは、不随意の筋肉収縮による疾病で、姿勢の異常や、全身あるいは体の一部の硬直、痙攣などを主徴とする。ジストニアは神経伝達物質の異常な放出による筋肉の収縮が原因と考えられているが、この神経伝達物質の放出をボツリヌス毒素を注射することによって押さえ、“正常”な状態にもどすというのがボツリヌス毒素療法の原理である。まさに毒をもって毒を制する方法で、日本では1996年から医療保険が適用されている。

また、最近ではお肌の“シワ”をとるためにボツリヌス毒素を注射するという美容法が普及している。眉間、額、目尻などのシワは筋肉の持続的収縮からくる。ボツリヌス毒素によるシワ取りは、神経伝達物質の過度の放出を抑制し、収縮を抑制するというジストニアの治療と同じ原理に基づいている。

平成19年4月1日、新感染症法が施行された。この法律の目的の一つは、バイオテロリズムの危険を未然に防ぐことにある。バイオテロ兵器として使用される可能性のある細菌やウイルスが規制の対象となり、所持、研究をするのに厚生労働省への申請や許可が必要となった。ボツリヌス菌や毒素も規制の対象になったが、関係する先生と事務の方々の多大なご尽力により、東京農大はボツリヌス毒素所持の許可を得ることができた。

これまで述べたようにボツリヌス毒素は食中毒の原因としてだけではなく、医療応用、社会秩序の維持といった面からも社会と深く関わっている。規制により制限が与えられているということは、逆にその研究に従事する研究者・研究組織の社会的責任が重いことを意味している。健康のため、社会のため、地道に(できれば華やかに)研究を続けることは筆者の使命であると考えるのは思い上がりであろうか。

 

COPYRIGHT (C) 2005-2006 TOKYO UNIVERSITY OF AGRICULTURE. ALL RIGHTS RESERVED.