東京農業大学

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教員コラム

健全で美しい森林の効用

2007年7月1日

地域環境科学部森林総合科学科 教授 上原 巌

その保健休養機能の研究

現在、日本の森林・林業の抱える大きな問題の1つに、全国各地の人工林や、二次林の手入れ不足があげられる。30〜40年あまりも全く手付かずで薄暗い状態のまま放置されている森林・山林は至る所で目にすることができる。林床に光が届かず、植生が貧相な林分では土壌流亡が生じやすく、また病虫害、気象害などにも脆弱である。

そこで、こうした全国の放置林を適切に再造林していくのが我々の役割であるのだが、森林環境の持つ効用は木材生産のみならず、土砂崩れ防止等の環境保全のほか、広く社会の保健休養機能の効用も有している。最近の森林・林業白書では、この保健休養の価値を2.25兆円と提示している。生活習慣病やメンタルヘルスの一環として、また高齢者や障がい者などをはじめ、地域福祉においても、森林環境が寄与できる効果は大きなポテンシャルを持っていると言える。

 

日本森林学会の新テーマに

それでは、そうした保健休養機能の優れた森林環境とはどのような条件で、またどのように造成をしていけばいいのであろうか?

私たちは2005年度の日本森林学会大会より、「森林環境の持つ保健休養機能についての新たな研究の展開」という新テーマのセッションを立ち上げた。同セッションでは、森林環境内の揮発性物質(いわゆるフィトンチッド)や音・光、温度・イオン環境などの「環境要素型」の研究をはじめ、様々な森林環境下における「生理的・心理的」な研究、また森林・林業における新しい分野でもあることから、「研究・調査手法、効果測定尺度の研究」、そして実際に森林環境を活用した「臨床研究」の、大きく分けて4つのタイプの発表を行っている。

これまでの研究結果から、端的に言って、針葉樹・広葉樹の混交林が、林内揮発成分、音、温度、休養効果などでも多様な作用を有し、また都市環境と比較して、明るく健全に保育管理された森林環境では、快適性、休養効果が高く、心理的、生理的ストレスが少ないことなどが報告されている。つまり、森林療法の最適地としては、除伐、間伐、枝打ち、ツル伐りなど、適切な森林保育管理のなされた針・広混交林がのぞましいと考えられるのであるが、これらのことは今あらためて言うまでもなく、伝統的な林業上のいわば常識的なことばかりであると言える。

 

医療・福祉・教育の協働を

しかしながら、保健休養効果には、当然ながら各個人の目的、嗜好や過去の森林体験も影響することも様々なアプローチから明らかになっているし、どのくらいの頻度で、どのくらいの時間森林環境で過ごすことが、どのくらいの期間効果をもたらすかなどについてはまだ明らかになっていない。また、針葉樹林と落葉広葉樹林、常緑広葉樹林における効果の差異や、季節変化や気象、気候条件などによる違いなども調査を行うのは困難であり、まだ明らかにされてはいないのである。

セッションには地域医療を担当している医師などにも出席していただいている。医師からは、森林には自律神経のバランスや抑鬱状態の軽減など、心身の異常値を健常値に近づけるスタビライザー的な働きがあり、長期における行動療法、精神療法、環境療法の場としても好適であることなどが報告されている。森林環境の持つ保健休養機能を今後さらに高めていくためには、これまでのように森林・林業関係者のみならず、当然ながら医療・福祉や教育現場などとのコラボレーションを図っていくことも同セッションでは提言された。こうした形での協働は、森林の保健休養効果の増進のみならず、今後の日本の森林の再生にとっても欠かせない要素となることだろう。

 

福祉分野での活用例

それでは、実際の福祉・医療分野における森林の活用では、どのようなことが行われているのだろうか?ここでは、福祉、医療、カウンセリングの3つの分野での様子を簡単に列挙してみる。

まず福祉の分野の事例では、私がかつて勤務をしていた山間部の社会福祉施設などにおいて、知的障がいや、自閉症などの発達障がいを抱えた方々が長期的かつ定期的に地域の山林に出かけ、散策や丸太運搬などの作業活動に取り組んだ。その結果、パニックや障害行動が減少し、精神や感情も安定して、コミュニケーションが活発になることなどが報告されている。

現在、全国の里山で地域ボランティアを中心とした整備・再生活動が行われているが、そうした里山の再生活動を福祉活動と関連させた活動も始まっている。例えば、関西の社会福祉施設において、地域の里山の再生活動を地域住民と共同で取り組んだ結果でも、参加した知的あるいは精神障がい者には精神や感情の安定、コミュニケーションの活発化といった結果を得ることができた。整理伐、除伐などの森林の保育作業を作業療法の一環として取り込むことができることも森林環境の持つ魅力の一つである。

これまでのところ、そうした保育作業によって鬱閉した林冠を開け、林床に光を入れて、下層植生を発達させ、森林内にも鳥や小動物などが戻って来るような環境に変化していくことと同時に、障がいを抱えた対象者の様子も良好になっていくことが確認されている。下層植生や小動物の多様性の増加と森林環境の保健休養のアメニティ、対象者の休養効果はすべて比例していることがうかがえる。この際にもその効果を根本的に左右するのはやはり適切な森林管理であり、造成手法である。

 

PTSDにも良好な結果

医療関係での事例では、ある地域の病院において、病院近くの森林公園を活動場所および休養空間とし、トラウマ関連疾患(PTSD)児童を対象として、毎週3回の頻度で、それぞれ午前9〜12時までの3時間前後、森林散策および簡単な軽作業を行った。その報告によると、薬剤抵抗性の重度パニック、フラッシュバック、衝動行為等が改善し、日常の行動面においても、「ひきこもり」「社会性」「攻撃的行動」などの各行動尺度(CBCL)において特に良好な結果がみられ、コミュニケーションスキルでは発語が明瞭になり、場面に応じたコミュニケーションや、グループ内での自己の役割に応じた行動ができるようになるなどの変容を確認することができた。

他の地域の精神科の病院でも、森林環境での野外プログラムを体験した対象者には、身体、コミュニケーション、社会性などの面で向上がみられたことが報告されており、リハビリテーション分野では、認知症の高齢者を対象に、野外環境を散策しながら樹木の香りを楽しむなどの時間を定期的に過ごした結果、対象者には気分が向上することや、転倒予防トレーニングの一環となることが報告されている。

 

カウンセリング分野での事例

カウンセリング分野の事例では、森林でのカウンセリング後には自己の抱える悩みの減少・緩和や、自分自身を受け入れる「自己受容度」、コミュニケーション意欲・能力、チームワークなどが向上することがうかがえる。例えば、軽症のうつを抱えたクライエントを対象に落葉広葉樹林を中心とした森林環境において、毎月1回定期的に散策を行いながらのカウンセリングを行った結果、食欲や睡眠の健常化、自己受容および自己肯定感の促進などが認められた。また、アカマツ、ヒノキ、カラマツなどの針葉樹を中心とした大学演習林を利用し、アスペルガー障がい(高機能性自閉症)を抱えたクライエントを対象としたケースにおいても、森林散策をしながらカウンセリングを定期的に行った結果、自閉性の緩和や、コミュニケーション能力が向上したことが認められた。

 

森林美学の方向性と合致

以上のような結果から、森林環境は福祉・医療・カウンセリングのそれぞれの分野のクライエントをうけいれる「受容環境」としての意義を持ち、多様な生物によって形成される環境の利点を活かして、ゆっくりとした季節変化、日変化という時間軸の中において、精神、身体両面への効果をもたらすことが期待される。そして上記の福祉、医療、カウンセリングのいずれの分野においても森林美が根幹となっている。

かつてドイツの林学者のメーラー(1860―1922)は、その著書「恒続林思想(Der Dauerwaldgedanke)」の中で、「最も健全で最も美しい森林は最良質の木材を最多量に供給する」との言葉をのこしたが、同様に「最も健全で最も美しい森林は最も我々の健康を増進する」というのが私の仮説であり、それを実証する造林手法が私の研究テーマとなっている。メーラーの恒続林施業では、混交林、異例林をはじめ、地域産の種子や苗木を用いた人工植栽を提唱し、最後に森林美学を提唱している。前述したセッションの研究結果、方向性ははからずもこの彼の論旨とも合致する結果になってきている。

 

山林の荒廃など課題山積

2003年に林野庁が発表した「高齢社会における森林空間の利用に関する調査報告書」によると、全国の医療機関のうち、高齢者の保養・療養環境として森林に期待している機関が5〜7割以上の高率にのぼることが明らかになった。我が国が迎えている高齢化社会や 生活習慣病の予防医療分野なども鑑み、保健休養環境、健康増進としての森林活用は今後さらにそのニーズは高まることが予想される。

しかしながら、そうした活用を考えた場合の現時点における課題として、「森林の未整備」「専門の付添人がいない」「保険点数の対象とならない」などのことも同時に報告されている。国土の実に7割近くを森林が占めている我が国ではあるが、その急峻な地形をはじめ、前述した保育、手入れ不足による山林の荒廃化、森林と健康増進を仲介する人材の不足等によって、森林の持つ貴重な保健休養の機能はまだ十分に活用しきれているとはいえないのである。

 

より多角的なアプローチを

これらのことをふまえ、現在はまず放置林再生の手法の確立化を図るために、間伐密度や土壌流亡、更新技術などについての各要素の調査研究を行っている。また、いまだに長期的な実践や具体的な症例・障がいの研究データが不足していることや、生活習慣病の予防やメンタルヘルスの一環として、あるいは心身のリハビリテーションの環境として、森林がどの程度効果的であり、またどのような森林ならではの特徴があるのかを具体的に明らかにしていかなければならない。森林環境の持つ保健休養の効果と意義を、より多角的なアプローチから継続して調査研究していきたいと考えている。

 

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