コミュニケーションの本質を探る
伝達という幻想と構築という可能性
東京情報大学総合情報学部情報文化学科(メディア・社会研究室)准教授
圓岡 偉男(つぶらおか ひでお)
1964年埼玉県生まれ。早稲田大学大学院人間科学研究科博士後期課程修了。博士(人間科学)。
専門分野:理論社会学
主な研究テーマ:社会認識に関する理論研究。
主な著書:圓岡偉男(編)『社会学的問いかけ』(新泉社)、木戸功・圓岡偉男(編)『社会学的まなざし』(新泉社)、川野健治・圓岡偉男・余語琢磨(編)『間主観性の人間科学』(言叢社)。
一般的に、コミュニケーションとは、他者への情報の伝達、すなわち、自己と他者の間の情報の移動として理解されている。つまり、それは自己ではない他者を志向しているということに、一つの特徴がある。しかし、自己と他者は物理的につながっていず、明らかな不連続性がある。コミュニケーションの本質を理解するには、そのような他者への情報の移動がいかなるものかについて、十分な考察が求められる。
不確定な他者の存在
自己と他者は同格的な存在として、それぞれ自律性を有し、一つの閉じた系として規定される。この自律した個としての自己と他者の存在こそコミュニケーションを考える上で重要な要素となる。
そこには、予測が困難な他者の存在がある。われわれは、ある事態がきわめて高い頻度で出現する可能性をもっているとき、蓋然性が高いと形容する。日常生活において、確実と呼ばれる事態があったとしても、実はそれは、その蓋然性がきわめて高いと想定される事態を指しているにすぎない。
他者という存在は外部のものにとって、その非連続性により、蓋然性ではなく、非蓋然性を多分にもった存在として現前している。他者には様々な選択肢がある。予測が困難という事態の根底には他者のもつ複数の可能性がある。
自己と他者は自律的であると同時に同格的であると述べた。このことは、自己、他者の相互において個々に不確定な事態が存在することを意味しており、その相互の不確定性は、重なり合わされ二重の不確定性を生じることになる。このとき、もはやコミュニケーションを単純な発信/受信とする説明では不十分なものとなる。
情報の理解と誤解の間に
コミュニケーションとは、発信された情報が他者に理解されることでその作動を達成すると考えられる。他者が受信した情報を理解したか否か、少なくとも情報が到達したか否かを知ることなしに、コミュニケーションは終了できない。われわれは、他者への情報の到達の有無を他者の何らかの反応によって知ることになる。すなわち、他者からの何らかの反応を確認することによって、コミュニケーションは一連の作動を暫定的に終了することができる。もし、他者の反応を確認できなければそれは単なる独り言になってしまうことであろう。
コミュニケーションという作動にとって、完全にしろ、不完全にしろ、他者に伝える情報の理解を促すという目的がそこにある。このとき、コミュニケーション成立のメルクマールである他者の反応は、この理解の確認にもとづいている。情報というものはそれ自体無形のものであり、送り手から受け手と同一のものを譲渡するという性質のものではない。コミュニケーションにおいて、情報の譲渡というメタファはその単純さゆえ一つの明確さをもっているがごとく理解される。しかし、その単純さゆえにその本質は誤解されることになる。
確かに、コミュニケーションを特定の情報がその同一性を保ちつつ、他者に送られるという事態として形容できるかもしれない。しかし、それは結果としての形容であり、コミュニケーションの本質をあらわしているものではない。情報自体が無形である以上、コミュニケーションを実体あるなにがしかの譲渡と理解することはできない。
ここに、他者性の問題、すなわち、他者の非蓋然的性質の問題がある。その中心が<選択>という事態である。他者は提示された情報に関心を示すこともできるし無視することもできる。そして、ここに他者の内的な総合を見いだすことができる。それは他者における、他者にとっての情報の再構成といえるものである。
さらに、この他者の内部に構成された情報は他者の内部で他者の知識にもとづいて評価されることになる。ここに理解という事態が生じる。すなわち、情報を他者に伝えるとは、他者のなかに情報が再構成され、それが他者の内部で評価されることを意味している。もちろん、このように他者のなかに構築された情報およびその理解が、情報の発信者の理解と一致するという保証はどこにもない。ここに誤解という事態を見ることができる。この誤解の存在こそが情報の移行という単純な表現の不完全さを示すのである。
先行する知識による理解
コミュニケーションという営為において、われわれは他者に対して何らかの情報を提供する。しかし、それは他者が理解を構築する契機を提供しているにすぎない。われわれは日常生活において様々なものを理解する。その際、われわれは先行する知識にもとづいて何らかの理解を得ているのである。
先行する知識も一つの理解であるといえる。理解できない事態と遭遇しても、それは理解できるものとの差異化において、理解できないということを理解している。いずれにしても、理解とは与えられた情報のみで処理することはできない。そこでは、過去の、あるいはストックされた理解が必要なのである。そして、これらの理解や知識はその量や質において個々人にもとづいたものであり、このことが理解の構築にとって、その他者性を強化している側面でもある。つまり、他者との非連続は、物理的な非連続だけではなく、このように理解の構築に向けられた先行する知識の差異にも起因しているのである。
先行する知識とは、過去を現在に読み替えることによって一つの理解を産出しているといえる。そして、このとき、理解は自己のもつ別の理解に準拠することによって産出されている自己言及的システムとして特徴づけられる。コミュニケーションという作動において、他者に向けられた情報は、他者のなかで理解の構築を促す。その構築された理解に対して、さらに再考ないし反省の契機が介入する。この反省されたコミュニケーションは、いわばコミュニケーションについてのコミュニケーションを意味する。コミュニケーションを継起することによって理解のさらなる再構築を促す。そして、発信者の期待に合致するときコミュニケーションは終了する。コミュニケーションは再帰的作動として、一つの理解に向けられた運動であると理解されよう。
このようなコミュニケーションがコミュニケーションを産出するという連鎖が、理解というものを構築してゆくのである。もはや他者への情報の伝達という表現は幻想でしかない! もちろん、メタファとしての有効性を否定するものではないが。したがって、コミュニケーションとは理解構築に向けられた一連の選択のプロセスであるといえよう。そして、ここにコミュニケーションのひとつの本質を見ることができる。
自明性への懐疑
われわれの生活は他者と関わることなしにもはや成り立たない。コミュニケーションは、人と人が関わるために不可欠な行為である。しかし、そのコミュニケーションの本質について目を向けることは少ない。
近年、人間関係にまつわる悲惨な事件を目の当たりにする。社会のなかに何が起きているのだろうか?われわれはこのコミュニケーションについて何を知っているのだろうか? 人間関係の基礎にあるコミュニケーションがある種の自明性をもって理解されてしまっているのではないか。自明性を疑うこと、それは決して天の邪鬼になれということではない。時として原点に返ることで新たに見えてくるものもある。当たり前であると思われていることのなかには、まだまだ顕在化していない問題があるかもしれない。もう一度、繰り返そう。われわれは何を知っているのか?