【国際社会とともに】 海外協力に多彩な人材を養成

国際農業開発学科、50年の歩み(上)

東京農業大学 国際食料情報学部国際農業開発学科 教授 (熱帯作物学研究室)

豊原秀和(とよはら ひでかず)

主な研究テーマ:「熱帯作物学」共著「カムカムに生きる」東京農大出版会

国際社会とともに歩むという意味で、東京農大の研究・教育両面の中核を担うのが国際食料情報学部である。とくに同学部国際農業開発学科は、その設立経緯を戦前にさかのぼり、直接の前身である農学部農業拓殖学科から数えても来年で設立50年の歴史を誇る。これまでに多くの人材を国際社会に送り出してきた。その歴史・伝統を振り返るとともに、今後の方向を展望したい。

戦前の専門部農業拓殖科の歴史

国際農業開発学科の歴史を語るとき、戦前の専門部農業拓殖科のことを忘れることはできない。第一次世界大戦後、若者たちの海外進出熱の高まりを背景に、まず大正15年11月、学内に「植民研究会」が組織され、それを基礎にして昭和12年、農業拓殖科が設立された。その頃はしだいに軍靴の音が高まっていく時代でもあった。拓殖科の学生は、13年から樺太での実習が開始され、その後、昭和15年には通化省、吉林省およびヤップ農場などにおいて実習を行った。昭和16年には樺太(現サハリン)に造成された農場での訓練実習を25日間実施した。さらに戦火が拡大しつつあった昭和18年、満州(現、中国東北部)東安省に満州報国農場が設置され、19年に7期生77名が動員された。昭和20年春、入学直後の農業拓殖科1年生が同農場に派遣されたが、終戦直前のソ連軍の侵攻で逃避行に追い込まれた。山野で栄養失調・病気になり、あるいはソ連軍の捕虜となって、教職員2名と学生56名(3年生2名、2年生1名を含む)の尊い命を落としたことは、誠に断腸の思いである。昭和21年1月に専門部農業拓殖科は開拓科と改称されたが、22年に廃止され、在学生は畜産科に編入した。

中南米に雄飛した昭和30年代

戦後の復興も軌道にのり、経済発展の兆しも現れた昭和30年前後は、農村の過剰人口、炭坑の閉鎖などで失業問題が発生し、とりわけ農村の二・三男問題の解決が急務とされていた。一方、我が国の国際社会への復帰も徐々にではあるが取り戻しつつあった。

当時、広大な未利用地を有する南米では農業技術または資本を有する移住者の受け入れを開始した。まだ日本人の海外活動は地域的に制限されていたが、中南米のブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビアなど幾つかの国が門戸を開放した。

終戦からわずかな期間で世界でも注目を集めるほどの復興を成し遂げた日本では、開発を待つ広大な耕地を有する海外の地に再び目を向ける時代を迎えた。もとより侵略ではなく、国内で培った農業感覚と理論技術をもって、世界人類の平和のために貢献しようとする気運の高まりである。

過剰人口に苦しむ国内では、農村の二・三男問題などに対応するため、海外に農業技術者並びに移住者として派遣することが期待された。そのような時代背景を受けて、東京農大は昭和31年、千葉三郎・第4代学長の主導のもと、農学部農業拓殖学科を設立した。

農業拓殖学科は、人類一体・民族融和のため農業分野において貢献することを教育目標に掲げ、農業技術の習得とともに、政治・経済・社会・文化を併せて習得できるようなカリキュラム、すなわち、当時から自然科学と社会科学の両分野にわたる教育・研究を行い、国内外において幅広く活躍できる人材の養成を目指した。

教職員と学生が一体となって農業技術の鍛錬に明け暮れ、その中で実力のある不屈の精神と肉体を養うことを重視していた。海外移住者の指導者となるためには、強固な精神力・強健な肉体を具えるとともに、優れた実践力の持主でなければならない。したがって、それらを養うためには実習教育が最重要であるとして、学内における正規の農業実習以外に全国の農家・農場・試験場などでの実習を通して、現場事情を知るとともに精神と肉体を鍛錬しながら、国際的感覚を高めようとする教育は大変ユニークなものとして、内外からも高く評価されていた。

米大陸に校友311人

また、海外における実習地確保については、初代学科長である杉野忠夫教授が北米や南米に赴き、農大生の実習受け入れの依頼をして回り、多くの受け入れ農場の確保に成功した。それを受けて、農業拓殖学科の海外農業実習は、昭和34年に国際農友会(旧農村更正協会)に3名の派米実習生を派遣して開始された。昭和38年には他学科への門戸も開放され、昭和41年までの派遣実績は117名(うち農業拓殖学科生75名)となった。

一方で、国際農友会以外で農大独自の派米農業実習生の派遣も始まり、多くの学生が参加するようになった。また、ブラジルにおける農業実習は、昭和34年に派遣してから順調に進行し、昭和38年までの間に、多くの学生が参加した。さらに、それらの経験を踏まえて中南米を中心に移住した卒業生も多く、卒業生は現地社会に溶け込んで活躍している。

ちなみに、パンアメリカに移住するOBの総数は311名である(東農大パンアメリカ校友名簿2000年より)。地域別では北米83名、中米17名、南米211名となっている。国別では、ブラジル176名、カナダ45名、アメリカ38名、アルゼンチン19名、メキシコ15名、パラグアイ12名、ペルー4名、コスタリカ2名となっている。国際農業開発学科卒(旧農業拓殖学科)は、全体の53%、165名となっている。

以上のように、農業拓殖学科が創設された昭和30年代は、中南米を中心とした海外農業実習や移住が中心であった。

国際協力事業へのチャレンジ

昭和40年に日本青年による海外ボランティア事業として青年海外協力隊が発足した。その目的は、第二次世界大戦でイギリスやフランス、オランダなどの植民地であったアフリカや東南アジア諸国の国造りを支援するためであった。これらの国々では独立を果たしたものの、自力での国造りが出来ない状況にあり、特に食糧増産が急務であったため、それら発展途上国の農業支援を行うことが期待された。

当時は、現在のように海外渡航が容易にできる状況ではなかったため、青年海外協力隊派遣事業は学生たちに、海外への夢、あこがれを実現できる機会を与えた。したがって、40年代以降は、移住者が減少し青年海外協力隊で国際協力に参加する卒業生が多くなってきた。そのころから農業拓殖学科の教育目標も「熱帯地域の途上国が直面している人口・食糧問題、貧困と社会不安、資源の枯渇、砂漠化、環境悪化といった様々な問題解決のため、農業開発協力を通して貢献できる人材の養成」を目的として、教育・研究が行われるようになった。

ちなみに、青年海外協力隊の第1回目の農林水産分野18名の派遣に対し、本学卒業生は7名が参加した。その後、青年海外協力隊への希望者が増加し、年間20名程度の卒業生が世界各地に派遣されるようになった。昭和40年から平成16年までの実績をみると、本学卒業生は713名、そのうち国際農業開発学科(農業拓殖学科)卒業生は、308名にのぼる。

しかし、移住が途絶えたわけではなく、昭和61年には移住のためのインターンシップとして3年間の体験移住が出来る開発青年制度ができ、ブラジルやパラグアイなどに16名の卒業生が参加した。

農家を借りて農業を実践

海外を夢見る多くの学生たちの中には、農家を借りて農業を実践するグループもある。「志雄塾」「わらぶきの家」「向志朋」などで、ここでは、その中の一つ、向志朋について記すことにする。

向志朋は、昭和48年に故関戸孝明氏(当時、東京農大通信教育部長)の農業実践者を育てるという情熱によって誕生した。学生たちは、横浜市緑区元石川町にある関戸氏所有の田畑を借り、自給自足をしながら大学に通っていた。その多くは、4年次を休学し海外実習にも参加し、卒業後は青年海外協力隊へ参加する者、OISCAに参加する者などがいた。多くは帰国後JICA職員になっている。

創設メンバーの1人である大塚正明氏は、青年海外協力隊の駒ヶ根訓練所長、JICAケニア事務所長を経て、現在は青年海外協力隊事務局長という要職についている。佐藤三郎氏は、青年海外協力隊終了後、外務省に入省し、バングラデシュ、ラオス、ポーランド、ネパールなどの大使館での書記官を経て、在チェンマイ総領事として活躍している。さらに、JICAの黒柳俊之氏、OISCAの渡辺重美氏もその仲間である。

農学部農業拓殖学科は、平成2年、国際農業開発学科に名称を変更した。その教育理念などは次回に続ける。

×CLOSE