障害者の「心身」を開く

「治療的乗馬」の取り組み

東京農大農学部バイオセラピー学科(動物介在療法学研究室)教授
滝坂 信一(たきさか しんいち)

1950年福島県生まれ。東京学芸大学大学院教育学研究科修士課程修了。

専門分野:臨床心理学、教育方法、治療的乗馬、社会認識論

主な研究テーマ:障害のある子どもの教育と馬を用いた活動の評価法

主な著書:発達障害白書2007特集・岐路に立つ日本制度改革の行方(共著)日本文化科学社、特別支援教育の学習指導案づくり(共著)明治図書。

私が取り組んできたのは、「障害」のある人々のそだちとくらしを心理学と教育学の領域から考えるということである。これらを通じて、社会的存在としての人とはどういうことか、社会と個人との関係とはどういうことかを考えてきた。  「ある社会がその構成員のいくらかの人々を閉め出すような場合、それは弱くもろい社会なのである。障害者は、その社会の他の異なったニーズを持つ特別な集団と考えられるべきではなく、その通常の人間的なニーズを満たすのに特別の困難を持つ普通の市民と考えられるべきなのである。」これは国際障害者年行動計画(1980)の一節だ。私たちは、どのようにどの人をも締め出さない社会をこの日本に実現することができるだろうか。

「万人のための社会」をめざす

1993年、ウィーンで開かれた世界人権会議は、「万人のための社会(Society for All)を2010年までにつくりあげることが国連の障害者問題についての課題である」とする<ウィーン宣言、行動計画>を採択した。国連はこれを受け、1994年「あらゆる市民のニーズが計画立案と政策の基礎となる」『万人のための社会』(1995〜1996:導入期、1997〜2002:中期、2002〜2010:さらなる達成)」の実現に取り組むことを総会決議した。

明治維新以降につくられた現在の日本の社会システムは、簡単に言うと「国が決めたことを都道府県を通じて市町村に具体化させる。国民はこれに従っていれば幸せになれる」というシステムだ。これに対し「万人のための社会」のシステムは「一人ひとりのもつニーズ」から始める。「一人ひとりのもつニーズ」を実現する仕組みを小さな単位から構成し、最終的に国の単位を創るという考え方だ。これは、天動説から地動説への転換、社会システムの「コペルニクス的転回」と呼ぶことができる。こういった社会では、障害があるから、人種や言葉が違うから、女性だから、子どもだから、老人だからといったことを理由として居住する社会から疎外されることはない。すなわち人権問題が解消される社会である。

コミュニケーション手段の共有

「障害」は、「同時代に生きる圧倒的多数の人々とのコミュニケーション手段を共有することができない事態が恒常的に続く状態」ということができる。なかでも、脳の障害に起因し、社会に成立している様々な規範を行動水準で獲得することに困難が生じる「自閉症」、運動機能の不全と知的障害、視覚障害や聴覚障害等の感覚障害を併せ持つ「重度重複障害」のある人々には、この点に大きな困難があるといえる。これらの人々にとっての困難は、感じていること、考えていることが他者に伝えられない、他者から分かりにくい事態の中に生活していることだ。その結果、ストレスのとても高い日常生活が続くことになる。

また家族をはじめ周囲の人々にも高いストレスが生じることになる。そして、周囲の人々が「(障害のある)この人は何もわかっていない」「(障害のある人は)自分と同じようには感じていない」といつの間にか思い込み、赤ちゃんに接するときのような言葉遣いや接し方をしてしまうような事態が生じる。同時に、障害のある人々が自分を表現しようとすることを諦めてしまったり、相手に合わせて「何も分からない赤ちゃん」のように振舞ってしまったりということが起こりえる。これらのことは、私たちの大多数が、ある「表現の様式」を無意識のうちに身につけ、それができることを当たり前としていること、しかし障害のある人々にとっては、中枢神経系の損傷等によってこの「様式」を身に着ける(学習する)ことが難しく、異なる様式を身につけてしまう、あるいは身体の動きが異なる様式をとってしまう事態のなかで起こる。この「様式化」の困難をどのように軽減できるか、どのようにしたら様式化に困難のある人々への理解に近づけるか、コミュニケーションが可能になるか、「万人のための社会」を実現しようとしたとき、この課題を解明し方法を開発していくことは不可欠な内容だと私は考えている。

心身一元の「表現様式」

私たちは、姿かたちが異なりことばを話さず他の表現の様式をもつ様々な動物たちをパートナーアニマルと呼んで、それらとの心のやり取りや、心の変化の読み取りを工夫する。それにもかかわらず、同じ人間である障害のある人たちの異なる表現の様式に対して「通じない」「わからない」と苛立ちを感じてしまうことがある。「同じ姿」をしているがゆえに「私と同じようにできて当たり前」という意識が生じ、そのことによってこのような態度は生み出されるのだろうか。

さて、「身体の動きの様式化」ということを考える際に大きな手がかりとなることの一つに「私たちの身体には必ず内的な過程(心)が表出する。私たちの身体と心はそのようなものとしてある」ということがある。例えば、身体がリラックスしたとき、心もまた必ずリラックスしている。私たちは、「心はリラックスしているが身体は緊張している」ということができない。私たちは生きていて覚醒している限り必ず心に動きがあり、それは身体や身体の動きに必ず表出する。そして、私たちは社会に生まれ生きることによって無意識のうちにその社会に成立している表現の様式へと身体の動きをつくっていく。この「共有された様式」が「相手を理解する」また「コミュニケーションが成立する」ことの大きな基盤になっている。

馬をパートナーとして

現在私は「動物介在療法学研究室」に属し、「治療的乗馬(Therapeutic Riding)」という馬の特性を活かした、障害のある人々への 教育および心理的対応、 医療、 スポーツ・レクリエーションという領域を扱っている。  

私たちは、電車の中でやっと歩き始めてばかりの赤ちゃんとお母さんを見かけ、とても穏やかな気持ちになりにこにこしてしまう経験をもっている。馬と出会うということはこれととても似た場面を作る。馬を見ているとついにこにこし、触れたくなってくるから不思議だ。そのとき、心からも身体からも気持ちよく力が抜けている。馬という動物をパートナーに、障害の有無や年齢差、性差、ことばの違いなどをこえて人の心と身体を開き人と人とをつなぐ出会いの場面がつくれたら素敵だと考えている。

また、子どもを肩車した経験をもつ人も多いだろう。肩に乗った子どもの不安は身体の緊張を通じて伝わってくる。やがて徐々に緊張が解けてくると、会話がなくても子どもがどちらに歩いてほしいか、停まってほしいかが身体の動きを通じて即時に分かってくる。身体を預けるということは、心を預けることだ。気持ちよく馬に乗るということは、実はそういうことである。運動機能障害のある人たちや自閉症の人たちの身体に触れてみると、心理的なものと病理的なものからなる恒常的な緊張のあることがわかる。馬のもつ人に対する親和性と騎乗にともなう運動によって、これらの人々の心と身体が開かれたとき、通常では見られない様々な表出が発現する。これらのことから、馬を通じて障害のある人々が身体の動きを「様式化」に向けて構成する学習機会を提供することができないかと考えている。

 

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