サツマイモ伝来400余年(下)

明治末には300品種に 飯郷八十吉翁にまつわる推論も

東京農業大学国際食料情報学部 教授

鈴木 俊( すずき しゅん)

1943年静岡県生まれ。東京農大農学部農業拓殖学科卒。

東京農大国際食料情報学部国際農業開発学科(農業開発政策研究室)教授

専門分野: 農業開発普及論、農業教育論

主な研究テーマ: 農村レベルの加工技術と普及、途上国の普及システム評価法の開発

主な著書: 国際協力の農業普及(農大出版)、農業技術移転論(信山社)、農が拓く東アジア共同体(共)(日本経済評論社)

「源氏」「紅赤」「七福」の来歴

わが国に伝来したサツマイモは、その救荒性と作りやすさから、各地に普及していく。坂井健吉『さつまいも』によると、明治20年(1887年)には、作付面積21万9千700ha、収量210万5千トンに達した。明治末には約300品種に上り、うち3分の1は沖縄で作られたと考えられている。  多くは栽培農家によって育成されたもので、木村昇『芋』によると、その代表品種として、源氏、紅赤、七福、花魁、飯郷などがあげられている。この中で源氏と七福は、広島県安芸郡の久保田勇次郎によりオーストラリア(明治26年)とアメリカ(明治33年)から導入されたものである。一方、紅赤は埼玉県北足立郡の畳職山田啓太郎の妻イチ女が自作の畑から偶然変異の株を発見した(明治31年)ものといわれ、これら3種類はその後多くの改良種の基となっている。

来歴不明の「花魁」と「飯郷」

ここで気になるのは来歴の判らない代表品種の花魁と飯郷である。塩谷格によると、両品種とも静岡県の古い品種とみられ、飯郷が埼玉に伝わって花魁と呼ばれるようになったと推測されている。両品種の特性は大変似ており、芋は長紡錘形、外皮はくすんだ紫紅色、肉は白く中央に紫斑があり粘質で、とくに茨城では水戸から北部の中山間地に栽培されるという。同県特産のほしいもの由来と歴史をみると、飯郷種から関東二十二号を経て現在の玉豊種となったとされている。

この栽培しやすく保存食に適する飯郷種を育成(発見)した人物は、飯郷八十吉ではないかというのが、筆者の立てた仮説である。「イイゴウ」という珍しい名称、その人となりや業績、さらには時代的背景から考えて、整合性が高いからである。

八十吉は弘化3年(1846)飯郷滝五郎とひさの長男として生まれ、農業を継ぐ傍ら明治11年(1878)には上十条村の村総代人、同12年には村議会の発足に伴って村議会議員に選任され副議長を務める。明治14(1881)年には第2回内国勧業博覧会に越瓜種(シロウリ)を出品、同15年には東京共進会に麦を出品(写真1)、5等を受賞している。

大日本農業奨励会『農業國』は、八十吉について「(略)翁は実に王子村十条に生まれ、殊に翁の生家というは旧来多くの土田を有して、しかも農事に勤められたものだ。翁も又弱冠のころ早くも農事の改良に熱心を籠められた。(略)慧眼なる翁は、農業にもまた学術と実地とが相伴わねば、真の改良ができぬと悟った。そこで翁は決然西ケ原の農業試験場に入って学術と実地の調和を計ろうとしたものである。(略)居村に帰り麦作の改良を始め、諸般の農事を改良せられたのである(略)」と記している。

東京農学校の農場担当講師

飯郷八十吉はまた東京農業大学ゆかりの人物でもある。明治20年代、本学の前身である東京農学校で初代農場担当講師を務めている。

八十吉は、農業改良に関する並々ならぬ努力家であり、当時の駒場出身の農学士たちが、学問の分野から現場技術にアプローチしたのに対し、現場の経験的実践的技術から学問の分野にアプローチした農学徒であり、当時としては数少ない進取の精神に富む農業改良・農村開発推進者であり、イノヴェーションのための強力なチェンジ・エージェントあるいはリーダーであったといえる。

以上の経緯から考えて、飯郷種は八十吉がサツマイモによく現れる芽条変異を発見採用あるいは育成したものかのどちらかであろうと推測される。そして、彼が生きた農業開発期にあった明治期に、彼の薫陶を受けた愛弟子たちに優良品種の携行帰省を勧めたであろうことは想像に難くない。このようにして、静岡や茨城や埼玉や九州などに瞬く間に普及していったのではないかと筆者は推論するのである。

榎本武揚からの招待状

東京農業大学「生みの親」榎本武揚と八十吉の出会いについての資料は見出されていないが、明治27年12月、東京農学校校主であった榎本から八十吉宛の官宅招待の手紙(写真2)が残っている。内容は次のとおり(西川英子解読)。

謹啓御清安に過ぎ賀し奉り候 陳(のぶれ)ハ東京農学校生徒も

実業御教示上種々ご尽力ニ預かり深謝致し候 就いては一夕緩々(ゆるゆる)

御話も致し且つ粗末之夕饌呈し度くが間 来る七日午後四時より

富士見町小生官宅ニ御來段下され度く御案内旁此の如くニ御座候                                          敬具

十二月三日

       子爵 榎本武揚

飯郷八十吉殿

       二伸 御差し支え之有無 御一報煩わし度く候也

榎本としては、八十吉の人となり並びに業績に、学生への実学教育の可能性を期待したであろうことは想像に難くない。そしてまた、可能性の域を出ない憶測が許されるならば次の点も記すことができる。すなわち、榎本がオランダ滞在の僅か10数年前に起こったアイルランドのジャガイモ飢饉の悲劇である。この飢饉は100万人を餓死させたうえに、150万とも200万ともいわれる人々を新大陸に移住させた悲惨きわまる史実で、当時の欧州では知らない者はなかったはずである。

榎本が北海道開拓使時代に模索した多方面にわたる農業開発への努力も、これらの欧州滞在中に見聞した経験の中から提起されたものであろうし、当時のロシアとの関係や、五稜郭での籠城経験から主食としてのゴショイモ(ジャガイモ)やサツマイモには特別な思い入れがあったと考えても不思議ではない。榎本としてはサツマイモの増産を目指して冷涼気候や晩植に適応し、乾燥芋として保存食にも適性があり、概して作りやすい品種の開発・普及を待ち望んでいたと考えられよう。さらにまた、草創期にあった日本農業の発展に向けた農業・農村のリーダー養成を篤農家飯郷八十吉に託したと筆者は考えたいのである。(なお、この推論に対して裏づけであり、異論であり新しい資料をお持ちの方は是非教えていただきたいと願っている次第である。)

最近のサツマイモ生産と消費

これ以後、第二次大戦直後の食糧難の時代には食糧増産や澱粉生産を目的に量産型の育成が盛んに行われ、「沖縄100号」や「コガネセンガン」などの品種名は記憶に残っている向きもあろう。  現在世界全体では136.1百万トンの生産(2001)がある。これは1人1年間11.2・消費することとなる。国別に見ると、アフリカ諸国が多くを消費しているが、これはマンジョカ(キャッサバ:木芋)の病気による不作で、サツマイモに依存しているからである。

さらに、バイオ燃料の増産によるトウモロコシの高騰や、これによる小麦や大豆の不足と米の国際価格高騰が問題となっている折、サツマイモはますます注目されるはずである。

願わくば、車のエンジンではなく、人々や動物の口に入るままでいてほしい。また、「飢餓の世紀」と危惧されている21世紀、人類が救荒作物としてのサツマイモに過度に頼ることにならないように。やはりサツマイモは時々口にするもので、秋の初めにあのアサガオによく似た花を楽しむ作物であってほしいものである。

 

 

《引用・参考文献》

愛知県農会編(1910)『全国篤農家列伝』

飯郷八十吉宛榎本武揚書簡(飯郷家所蔵)

飯郷昭二(2004)「いも」『北区史を考える会会報第74巻』

大賀圭治(2004)「国際イモ類研究センターの活動」『農業』1458号平成16年8月号

木村昇(1944)『芋』大和書房発行、興亜日本社発売

坂井健吉(2001)『ものと人間の文化史 90・さつまいも』法政大学出版会

塩谷格(2006)『サツマイモの遍歴 野生種から近代品種まで』法政大学出版会

大日本農業奨励会(1908)『農業國』12号

東京農業大学(1994)『東京農業大学100年史』

山田尚二(1994)『さつまいも』かごしま文庫、春苑堂出版

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