農薬の分子構造に隠された秘密

科学資材の有用性に理解を

 

東京農業大学応用生物科学部 教授
宮本 徹(みやもと とおる)

1946年大阪府生まれ。 東京農大大学院農学研究科博士課程修了。東京農大応用生物科学部生物応用化学科(生物制御化学研究室)教授。

専門分野:農薬化学、生物制御化学、環境毒性学。

主な研究テーマ:殺虫剤の作用機構と選択毒性

主な著書:農薬学(朝倉書店)

中国製冷凍ギョウザ事件で、改めて農薬に世間の関心が集まった。しかし、本来、農薬は農作物を作るに当たっての不可欠な先端科学資材の一つである。むろん合成化学物質一辺倒の防除を推奨しているわけではない。本稿では農薬という化学物質の正しい姿と機能を説くことにする。

不幸な農薬「悪役」論

中国製冷凍ギョウザ事件は、原因究明の途上にあるから断定はできないが、残留農薬による食品汚染ではなく、13年前のサリン事件と同じ類の薬物を武器にしたテロまがいの事件であろう。

使われたのが有機リン剤メタミドホスやジクロルボスだったことから、またも「農薬は怖いもの、危険なもの」として、多くの人々の「食の安全に係わるセンサー」に触れてしまった。中国産食品をすべて排除する流れができ、中国との政治摩擦にまで発展している。過去には多くの化学物質による毒性・公害事件のしこりが積み残され、いつも農薬がその時々の犯人として悪役を引き受けて来た。農薬を悪者にして化学物質の負の部分を表舞台に立たせて来たことは我々が負う不幸な歴史的経験ではないか。

合成農薬を一方の柱に、もう一方の柱に生態のうまい活用(生物の防御・共生・攻撃機能の模倣)と生物農薬からバイテク技術までの利用を配した新しい農業技術体系を捉えようとするものである。

農薬の毒性

1)急性毒性

薬物を体内に取り込むと短時間に損傷が発現する、時には死に至るのが急性毒性である。一般に経口毒性で評価するが、化学物質の製造や農業に従事する人達への安全性評価のため経皮、吸入による毒性評価も行う。

実験動物に薬物を与え通常24時間後にその半数が死ぬ薬量を半数致死量(LD50)または半数致死濃度(LC50)として体重1・当たりの薬量(・/・)またはppm(1時間等)で示す。「毒物及び劇物取締法」で規制され、毒性の強さにより、普通物(300mg以上)、劇物(300〜50・)、毒物(50・以下)、特定毒物に区分される(括弧内は経口毒性のLD50)。現在登録されている農薬の大半は毒性の低い普通物で、次に劇物が多く、毒物はわずかである。ギョウザ事件で問題になったメタミドホスは毒物、ジクロルボスは劇物、そして汎用の有機リン剤スミチオンは普通物である。

農薬を故意にあるいは誤ってLD50の薬量レベルで生体に与えるといずれも毒性が大きく発現するが、中でも毒物ほど少ない薬量で毒性を発現する。千葉の女児が有機リン剤中毒で1ヶ月余り入院したのはこの急性毒性が発現したためである。

2)慢性毒性  急性毒性が低いため一過的に摂取しても何の損傷も与えないが、継続して摂取した場合に発現する潜在的な毒性。実験動物に薬物を餌と混ぜて毎日一生涯に亘り摂取させ、外見や臓器表面、血中や内蔵になんの異常も認められない薬物の最大量を最大無悪影響量(NOAEL)として求め、・/・/日で示す。これを人の毒性に外挿するため、安全係数(普通は100)で除した薬物量を人の一日摂取許容量(ADI)とし、一生涯摂取し続けても現在の毒性学的知見から判断してなんの障害も現れない薬物の一日当たりの最大量(・/・/日)とする。このADIが慢性毒性の評価基準である。

薬としての機能

農薬は対象となる生物の生命維持機能のどこかに直接、致命的な損傷を与えこれら生物を撲滅する。冷凍ギョウザ中毒事件で問題になったメタミドホスやジクロルボスは、神経における刺激伝達の機構を撹乱して害虫を死に至らしめる。

神経細胞は細胞体とこれから伸びる細い繊維(軸索)から成り、これらがわずかな隙間をもって連続的に中枢部と末端器官をつないでいる。刺激は神経末端から放出される神経伝達物質により次の神経細胞に伝えられると同時に、役目を終えたこの伝達物質はアセチルコリンエステラーゼ(AChE)という酵素により加水分解される。有機リン剤はこの酵素に強く結合して伝達物質の分解を妨げ、害虫にあたかも刺激が連続して伝わってきているかのような作用を与えて異常興奮を呼び死に至らせる。

このように薬剤がその作用を発現する生物の生体部位を作用点という。有機リン剤の作用点はAChE、ピレスロイド系殺虫剤の作用点は神経軸索というように、各薬剤はこれら作用点に結合して殺虫、殺菌、除草の作用を発現し病害虫や雑草を防除する。

高い選択毒性をもつ

病害虫や雑草の作用点とよく似た作用点を人や温血動物、鳥や魚がもつ時は、農薬はこれらにも同様な効果(急性毒性)を発現する可能性がある。しかし、農薬が効果を発現するには、対象生物の作用点に構造上うまく適合し且つ一定の量と強さでこれに結合する必要がある。

有機リン剤の作用点であるAChEを例に取ると、この酵素は、虫と人や温血動物間で、時には同じ昆虫間でもその構造にわずかな差がある。農薬の構造がちょっと違うだけで各作用点に対する結合の度合いは異なってくる。

別表に、有機リン剤パラチオン並びに構造が少し違うメチルパラチオンとスミチオンのイエバエとラットに対する殺虫活性と急性毒性を示している。LD50の値が小さいほど殺虫活性や毒性は強い。表では、イエバエに対する3薬剤の殺虫力はほぼ同じであるが、ラットに対するスミチオンの毒性はパラチオンの約1/120と小さくなっている。即ち、イエバエに対する殺虫力とラットに於ける毒性の差(選択毒性)は、パラチオンで小さく、スミチオンで大きいことが分かる。選択毒性が大きく発現する農薬は虫を殺す薬量では人には毒性発現を起こせないのである。つまり、農薬とはこのような秘密をその分子構造の中に科学の粋を凝縮して隠しもってデザインされたものである。

残留毒性と食品の安全性

既に述べてきた急性毒性と慢性毒性の影響を直接受ける可能性があるのは農業生産者と農薬製造従事者だけで、大半の人は(自殺や殺人を目的としない限り)その機会をもたない。我々がすべからく農薬の影響を受けるのは、食品等に残留する微量の農薬や空気中に存在する微量の農薬を摂取する時だけである。このように微量の農薬が直接あるいは食物連鎖を通じて生物濃縮して残留した農畜水産物を食事を通して体内に摂取した場合に発現する慢性毒性を残留毒性という。

この2次毒性を回避するため、国内で使用する農薬の販売と使用は農薬取締法(農薬登録保留基準)により、国内産ならびに輸入農産物の流通は食品衛生法(残留農薬基準)により、問題となる農薬とその残留量をADIを算定基礎にして規制して来た。残留農薬基準は1991年までは26農薬と少なく、基準のない農薬を含有する農作物は規制の対象外のため流通を許容せざるを得なかった。そこで広く使われている農薬や高頻度に検出される農薬、新規登録の農薬から優先して2002年3月までに217農薬、約130種の農作物の基準が設定された。

しかし、中国からの輸入加工冷凍ホウレンソウ事件や登録のない農薬の流通発覚事件を契機に2003年5月には、これまでの設定農薬を規制するネガティブリスト制から農薬は原則残留してはいけないというポジティブリスト制へと食品衛生法が改正され、2006年5月に導入された。これによると、残留農薬基準をベースに、農薬登録保留基準、国際基準、欧米の基準等があるものはこれを暫定基準に、そして基準のない残りすべてに一律基準(0.01ppm)を設けて、これら基準を超えて農薬が残留する食品すべての流通を禁止できるようにした。特定農薬に指定したものは規制の対象外である。農薬を使用基準に従って正しく使えば、農作物に薬物が基準値を超えて残留することは無いはずで、因みにこれら農薬が残留基準を仮に100倍超えて検出されたとしても、あくまでも一過的な薬物の摂取であるので直ちに毒性上の問題はなにも発生しない。

豊かで快適な生活のために

このように、農薬は人への安全性に細心の注意を払って開発された薬である。医薬品が副作用とのバランスの中で活用され効果をあらわすように、農薬も使用基準に従って正しく使いこなせば有用な農業科学資材となり、その機能が十分に発揮されるのである。今我々は膨大な数の化学物質と共に豊かで快適、便利な生活を勝ち得ているが、その化学物質の一つひとつは必ずベネフィットとリスクを併せもっている。リスクを正しく学びどこまで許容できるか、そのバランスを見極めることが大切ではないかと考える。

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