【国際社会とともに】日系人のブラジル農業への貢献

新作物導入など、本学校友も活躍

東京農業大学 国際食料情報学部国際農業開発学科  助教授 (地域農業開発研究室)

三簾久夫(みすい ひさお)

主な研究テーマ:「ラテンアメリカ地域における農業・農村開発」

日本人のブラジル移住は1908年の「笠戸丸」渡航以来、やがて百年になる。当初、コロノ移民と呼ばれる契約労働者の日本人移住者は奴隷制度の遺制が残るコーヒー農場へ入植した。彼らは筆舌に尽くしがたい苦難の歴史を経て、今や日系人口は150万人とも言われ、多くの人々がブラジル社会に同化し、様々な分野で活躍している。中でも、農業に関する貢献は高く評価されている。

ブラジル農業への貢献を、@新作導入、育種、A中間層の形成、B農民の組織化、C農業開発への取り組み、D環境保全型農業の見直し―の各側面から見てみたい。それぞれの側面で、東京農大卒の校友たちが重要な役割を果たしていることは言うまでもない。

新作導入、育種

日系人が、ブラジルに導入した作物は花卉、野菜、果樹園芸作物に集中しており、ブラジルの基幹産業に関するもの、主要な輸出品となったものなども含まれている。花卉についてはサンパウロを始めとして都市近郊の花卉農家の大半は日系農家であり、市場開拓、需要を掘り起こすため、新たな品種、作物の導入育種、栽培方法の改善が行なわれてきた。

本学卒業生で山本喜誉司賞を受賞した荒木克弥氏もその一人である。氏はポットマム栽培(鉢物)の先駆者の一人であり、現在はサンパウロ花卉組合はじめ同生産組合などの要職(理事長、会長など)を務めている。野菜では白菜、ニラ、セリなどの葉菜類、ダイコン、コカブ、ナガイモなどの根菜類、トウガン、シロウリ、ユウガオ(かんぴょう)などの果菜類などを日本から導入している。これらは日本人移住者が郷愁を抱いて持ち込んだものである。

この他、外国から導入したものではマレー半島からコショウ、ラミー麻、スリランカからチャ(紅茶)、インドからジュートなどが代表的なものである。中でも、コショウ(香辛料)、ジュート(コーヒー用袋)は日系人がアマゾン地域に持ち込み、地域農業振興のみならず、国家規模でも貢献した作物である。また新品種の導入・改良をした作物としてはトマト、キュウリ、スイカなどの野菜類、ビワ、リンゴ、ブドウ、カキなどの果樹、パイナップル、バレイショ、パパイヤなどは日本以外から品種を導入している。中でも、リンゴは主にアルゼンチンからの輸入国であったが、「フジ」の導入により輸出国に変った。また、ハワイから導入されたパパイヤ、通称ハワイ・マモンは病気で生産性が低下したコショウ農家の代替作物として期待された。

このような作物の導入、育種に関して日系移住者の一員として生産の現場で直接、あるいは試験研究、農業資材の流通に携わりながら間接的に本学卒業生も貢献しているといえる。

中間層の形成

 ブラジルの農業は大土地所有と零細土地所有の二重構造で、中間層が従来存在しない構造であった。少し古いデータであるが、1980年で1,000<CODE NUM=04D4>以上の農家戸数は全体の1%を占めるに過ぎないが、農地面積では45%を占めている。また、100<CODE NUM=04D4>以下の農家は全体の90%を占めているが、農地面積では20%に過ぎない。

日系移住者は1930年代の倒産したファゼンダ(大農場)の土地を取得し、家族労働力を主体とする家族経営(ファミリーファーム)を創設した。この家族経営の形成は新しい農業の経営形態であるばかりでなく、従来存在しなかった社会階層としての中間層を形成した。その典型は、サンパウロ近郊の花卉、野菜、果樹などの商業的園芸農家である。これらの農家は労働集約的に商品作物を生産し、その販売によって生計を営む階層であり、サンパウロ近郊で農業を営む本学卒業生の多くは中規模商業的農業経営を営んでいる。

農民の組織化

農民組織は日系移住者に限らず、ドイツ系、オランダ系など農業に多く従事する人々によっても組織化されている。ただ、これらの組合は概して単一生産物の生産組合であるが、日系の組合は販売、購買、信用、利用の各部門を備えた総合的な組織であった。その中で最も知名度が高く、大規模であった組織が、コチア産業組合である。日系第一号の組合は、1918年にミナスジュライス州で稲作を営んでいたグループが設立したシンジケート・アグリコラ・ニッポーブラジレイロであるが、数年で消滅した。

コチア産業組合はサンパウロ州コチア郡のバレイショ農家82名によって当初設立された。これを契機に各地の日本人入植地で産業組合が結成され、その中央会が1934年に誕生した。コチア産業組合は戦前の一時期、日本政府の管轄下になったこともあったが、ブラジルの組合法人として農業の生産、販売、流通など幅広い分野の中核的存在であった。現在は、負債によって解散したが、新作物の導入・普及、後継者の育成、日系人発展の経済的裏付け的役割を果たしていた。

現在もブラジル各地には日系に限らず多くの産業組合があり、地域の農業振興、社会発展の一翼を担っている。中には、新規入植者は管轄する産業組合の職員としてユニオンシップを身に付けた後、農業者として独立させる方針を採用する組合もある。本学卒業生も多くがブラジル各地に存在する産業組合などの生産組織に参加し、組合長他の役員、監事などの要職を歴任し、組織の維持に貢献しつつ、その恩恵によくしている。

農業開発への取り組み

ブラジルは日本の23倍の国土を持ち、石器時代から現在までの時間が内在すると言われるほど社会経済的較差や地域格差が大きいと言われている。そのような地域格差是正のために、ブラジルは国家規模で地域開発計画が立案実施されている。いわゆる、アマゾン開発、セラード開発、東北部再開発計画など大規模計画の他、中小規模の計画が実施されている。

日系人も様々な農業開発計画の第一線に立って地域間格差の是正のために活動している。その背景には、過去100年近くにわたってブラジル各地で農業を営んできた日系の先人たちの実績がある。「日本人はガランチード」と呼ばれるという話を聞くことがある。「ガランチード」とは信頼できる人物という意味であり、勤勉さ、誠実さを表わす言葉である。そのような背景からブラジル中央高原に広がるセラード開発のパートナーにブラジル政府が日本を選択したとも言われている。

セラード開発にはコチアに代表される日系の産業組合が参加し、入植地を開設した。そして、東南部の組合員農家の次三男を対象に国内移住を勧めながら開発を進めてきた。プロジェクトが成功したか否かの評価についてはもう少し時間が必要であるが、「閉ざされた大地」と言われたセラードでダイズ、コムギ、トウモロコシ、コーヒーなどが栽培され、農業地帯へと変貌した。その陰には日本政府の資金協力があることは否定できないが、多くの日系人が貢献していることもまた事実である。それらの一員として農業技師あるいは、第二農場の設置などを通して直接、間接的に貢献している卒業生もいる。

環境保全型農業の見直し

ブラジルに限らず、世界の農業が目指す方向は環境との共存であろう。1992年にリオデジャネイロでの環境サミットでアマゾンの森林破壊が注目された。本学の卒業生でアマゾンの自然との共存を考えた森林農業の実践を試みている人物がいる。坂口陞氏である。

坂口氏は、基幹作物であったコショウの多くを病気で失い、農業の新たな方向を模索した。その結果、現地に長く住んでいるインディヘーナのホームヤードにヒントを得て、現在の森林農業を確立した。いわゆる混植農法である。樹木の中には虫などが嫌う揮発性物質を発散するもの、日陰を好むものなど多様な性格をもつものがあり、それらの性格に適合した組み合わせ、さらに高低差を利用して、それぞれ有用な樹種を配置することでアマゾンに自然環境とマッチした植生を再構築するものである。具体的にはゴムとコショウ、カカオとココナッツなどで組合わせは多様である。

農大生のブラジル移住は戦後移住が中心で、日系社会の中では第二世代にあたるのではないかと考える。戦前に移住した先人たちが築いた土台の上に、一層の改善を積み重ねる役割を担う一方、ブラジル社会への同化を模索してきた世代であろう。


参考文献;ブラジル日本移民七十年史:ブラジル日本文化協会1980年
      日系ブラジル農場の成立と発展、松田藤四郎、金木良三、小野功、明文書房1978年
      コチア産業組合六十年の歩み:コチア産業組合1987年
      ブラジルの日系人:1979年ブラジル移住七十周年農大記念事業実行委員会

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