難聴原因遺伝子の解明をめざす

マウス遺伝学によるアプローチ

東京農業大学生物産業学部 准教授

吉川 欣亮(きっかわ よしあき)

1968年茨城県生まれ。

東京農業大学大学院農学研究科博士後期課程中退。
東京農業大学生物産業学部生物生産学科(動物資源管理学研究室)准教授。

専門分野:哺乳類遺伝学、実験動物学

主な研究テーマ:視覚・聴覚の分子メカニズムの解明、分子遺伝学をベースとした新たなヒト疾患モデルマウスの開発

主な著書:マウスラボマニュアル(共著)シュプリンガー・フェアラーク東京、ゲノム研究実験ハンドブック(共著)羊土社、モデル動物の作製と維持(共著)エル・アイ・シーなど

マウスは哺乳動物の実験動物としては他種と比べて比較できないほど世界中で用いられており、私たちヒトを含めた哺乳動物の生命現象を解き明かす上では欠くことのできないツールとなっている。私たちの研究室ではマウス遺伝学の手法を駆使して、ヒトの病気の分子生物学的な解明を目的に研究を進めている。その中でも感覚器疾患、特に遺伝性難聴の研究を発展させたいと考えている。

遺伝性難聴

我国の難聴患者数は身体障害者福祉法の定義に含まれる患者数だけで30万人を越える極めて重要な疾患である。特に新生児難聴は約1,000人に1人と高頻度に認められ、このような新生児難聴者は音を聞くことができないだけでなく、言語獲得への障害も伴うことから、その結果としてヒトのQOLを著しく低下させることとなる。また、新生児難聴患者の半数は遺伝性であると推定されていることから、その原因究明、すなわち難聴発症に関与する遺伝子を同定することが大きな課題となっている。

マウス遺伝学

マウス遺伝学に基づいて解析が進められてきた遺伝子の異常により正常個体(野生型)とは異なった表現型(形質)を示す「ミュータント」は、ヒトの病気の発症メカニズムを解明するためのモデル動物として重要な役割を担ってきた。図1に示したように、マウス遺伝学は2つの大きな柱(手法)から成り立っている。

一つは「正遺伝学;Forward genetics」、すなわちメンデル以来の古典的な遺伝学を基礎として発展した学問であり、生物のもつ表現型(形質)を出発点として遺伝子の機能へとたどり着くものである。マウスにおいても、古くからマウス遺伝学者たちの努力により樹立されたミュータントマウスの表現型発症の原因となる遺伝子の同定により、遺伝子機能が解明されており、特に、1980年代後半から行われている原因遺伝子の染色体マッピングに基づいたポジショナルクローニングは、マウスゲノム基盤整備に伴い、正遺伝学の主要な手法となっている。

もう一つの柱は「逆遺伝学;Reverse genetics」であり、遺伝子から表現型へアプローチすることで遺伝子機能を明らかにするものであり、マウスにおいては遺伝子を個体へ導入したトランスジェニックマウス、およびジーンターゲティングにより、遺伝子を破壊したノックアウトマウスを作成することにより、遺伝子改変が行われたマウスの表現型から遺伝子機能を解明する手法である。

音を聞く細胞「有毛細胞」

一般的に「音」と呼ばれる機械的エネルギー刺激は耳介から体内に入り、外耳道を通り鼓膜を振動させ、耳小骨を伝わって内耳に侵入する。この内耳で、物理的な刺激であった音は電気信号に変換され、聴覚中枢で音として認識される。すなわち、音刺激が脳で認識されるためには、機械的刺激の電気信号への変換が必須の機能であり、そのために内耳が極めて重要な役割を持っている。

内耳の神経細胞の中でも特に重要な役割を持つ細胞が「有毛細胞」である。有毛細胞はその頂上部にアクチンフィラメントを主成分とした感覚毛(Stereocilia)を有しており、これらの不動毛は“Staircase pattern”と称されるように高さの異なった感覚毛が厳密に組織されている。有毛細胞は音刺激の変換の受容器細胞として機能しており、特に感覚毛はイオンチャンネルの受容に重要な役割をもつ。この感覚毛に何らかの形態・構造異常を示すとヒトは音を聞くことが出来ない、すなわち難聴を発症することとなる。私たちは音の受容に重要な役割を示すこの感覚毛に着目し、その機能および形成メカニズムの解明を目指して、感覚毛形成に異常を示すミュータントマウスを用いて研究を進めている。

感覚毛形成に異常を示すミュータントマウス

哺乳類の有毛細胞は聴覚器である蝸牛のコルチ器、および平衡感覚器である前庭・半規管に存在し、蝸牛のコルチ器の有毛細胞の感覚毛はマウスでは生後約20日齢でその形態が成熟する。一方、私たち成果を含めた最近の研究によって、感覚毛形成に関与する遺伝子が数多く明らかになってきた。特に、感覚毛形成に異常を示すミュータントマウスからの原因遺伝子のクローニングは、その解明に最も強力な情報源となっており、ここ数年で感覚毛形成に直接関与する遺伝子が数多く同定されている。さらに、ミュータントマウスの感覚毛形成不全の原因遺伝子のクローニングは、ヒト難聴遺伝子の同定にも大きく貢献し、実際に、現在明らかになっているヒト難聴遺伝子のほとんどがマウスの先行実験によって明らかとなっている。

私たちが研究に用いているJackson shaker(js)マウスと呼ばれる聴覚異常を示すミュータントマウスの電子顕微鏡により撮影した感覚毛がある。jsマウスは自然発症により発見された古典的なミュータントマウスで、その表現型は単一の劣性突然変異によって支配される、すなわち、突然変異を相同染色体上にホモにもつと感覚毛形成異常を発症する。jsマウスの感覚毛は、正常マウスと比較すると感覚毛が崩壊し、難聴を発症することとなる。

私たちのグループは図1に示した正遺伝学の手法であるポジショナルクローニングによりjsマウス特異的な突然変異をマウス第11番染色体に存在する機能不明であった遺伝子に存在することを発見した。この遺伝子がコードするタンパク質は、N末端側にアンキリンンリピート、C末端側にSAMと呼ばれる機能構造を有しており、これらの構造をもつほとんどのタンパク質が、タンパク質とタンパク質との間を繋げてタンパク質間のネットワークの形成に機能する役割を持つことが知られており、このようなタンパク質は「スカフォールドタンパク質(Scaffold protein)」と呼ばれている。

そこで私たちは、jsマウスの突然変異が認められたこの遺伝子をScaffold protein including ankyrin repeat and SAM domain:Sansと命名した。jsマウスにはSans遺伝子のDNA配列に1塩基の挿入が認められ、この挿入によりSans遺伝子から翻訳されるアミノ酸配列の変化し、停止コドンが出現することが明らかとなった。つまり、jsマウスでは挿入変異によってSansタンパク質のほとんどのアミノ酸配列が欠損することになり、このことが原因でjsマウスは感覚毛が崩壊し、難聴を発症することが推定された。加えて、私たちはjsマウスへ正常なSans遺伝子を含むDNAクローンを導入したトランスジェニックマウスを作製した。このトランスジェニックマウスは正常な感覚毛の形態を示し、聴力も正常に回復していたことから、Sans遺伝子がjsマウスの感覚毛異常の原因遺伝子であることがより強く示唆された。

さらに私たちはパスツール研究所のグループとの共同研究により、Sansの突然変異のヒト難聴患者への存在を調査した。その結果、ドイツ人、チュニジア人およびヨルダン人のUsher症候群と称される新生児難聴を含む症候群性難聴家系においてSansの突然変異を発見し、その家系の難聴発症者はすべてSansの突然変異を持つことから、Sansはヒトにおいても難聴発症の原因遺伝子であることが明らかとなり、マウスで発見された遺伝子がヒトの難聴へ直結する有用な結果となった。

医療につなぐ基礎データ提供

以上に示したように、ミュータントマウスからのヒト難聴へのアプローチは、ヒトの難聴発症の原因遺伝子の発見に極めて有効であり、さらに、このような難聴原因遺伝子の発見は、今後の早期診断、発症後の予防法、治療法および治療薬の開発に極めて有効である。しかし、治療法および治療薬の開発へと繋げるためには、難聴原因遺伝子についてより多くの情報を蓄積すること、すなわち遺伝子の機能を明らかにすることが重要である。私たちはその機能を明らかにし、難聴患者の医療へより多くの基礎データを提供するために現在の研究をより発展させていきたいと考えている。

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