葉緑素診断で窒素追肥量を調節

コムギの高品質・多収栽培の確立

東京農業大学 生物産業学部 網走寒冷地農場(生物生産学科、生物生産管理学研究室 兼務)講師

伊藤 博武(いとう ひろたけ)

主な研究テーマ「寒冷地における畑作物の生産性と品質に関する研究」

東京農大オホーツクキャンパスのある網走市は、日本の小麦総生産量の約1.2%を占める産地である。コムギ品種は春播きと秋播きに区別されるが、当市では秋播きコムギのみが栽培され、主に「うどん」の原料として利用されている。

私たちは、主力品種「ホクシン」の高品質・多収栽培技術の確立に取り組んできた。食感を左右するタンパク質含有率に注目し、葉緑素診断による効果的な窒素追肥の手法を究明した。その成果を報告する。

麺用コムギ「ホクシン」の品質

麺の食感には主に糯(もち)デンプンのアミロペクチンと粳(うるち)デンプンのアミロースの割合、およびタンパク質が関係する。食感を良くするためにはやや低アミロースで、子実のタンパク含量が10〜11%程度で、グルテンの質が適度の柔らかさと伸展性を持っていなければならない。穀物の中でコムギの胚乳にだけグルテンを作れるタンパク質が含まれており、その量と性質によってコムギの最終製品への加工適性が決定される。

高タンパクの場合は、中華麺やパスタのように麺が硬くなり、また灰分が高くなるので粉色も悪くなる。それに対して、低タンパクの場合は、粉食は問題にならないが、柔らかすぎて歯ごたえがなくなり、また茹で伸びし易くなる傾向がある。

生産現場が望む技術

主産地の網走市では全体的に秋播きコムギの子実タンパク質含有率が適正範囲を下回っており、その改善が望まれている。一方、コムギの価格は下がり続けており、地域農業の存続には生産コストを削減しつつ単位面積当たりの収量(以下、収量と略記する)を上昇させる栽培技術が必要である。

生育後期での窒素追肥は増収の可能性を高めるが、子実タンパク質含有率も適正範囲を超えてしまうことが報告されている。このために網走市の生産者は生育後期への窒素追肥を避けている。しかし、タンパク質含有率を予測できるなら、タンパク質含有率が低くなる圃場では窒素を追肥した方が良いのではないだろうか。

その場合、生育途中で生産者が窒素追肥の可否を判断するので、子実タンパク質含有率の予測方法は簡便かつ迅速でなければならない。

子実タンパク質含有率の予測法

そこで、予測の手段として、私たちは葉緑素に注目した。その含有率は葉緑素計によって葉緑素値として簡単に表現される。

子実タンパク質含有率との関係について検討すると、圃場全体で8割の穂が出揃う穂揃い期の葉緑素値との間に高い正の相関関係が認められた。例えば、図@に示すように子実タンパク質含有率は最低8%から最高13%までの圃場が認められ、それぞれに相応する葉緑素値は35と55となった。

これまでの他の研究によると、秋播きコムギ品種「チホクコムギ」でも同様の結果が得られている。しかし、ここまでの成果では統計学的に有意な関係を導きだしたにすぎず、同じ葉緑素値であっても予測される子実タンパク質含有率に数パーセントの幅があり、とても生産現場での技術普及は不可能であった。

そこで、次に網走市に主に分布する4つの土壌タイプを考慮して葉緑素値と子実タンパク質含有率との関係に着目した。その結果、2つの土壌タイプでは技術普及に堪える予測精度が得られた。

しかし、残りの土壌タイプでは満足できる結果が得られなかった。その土壌タイプが該当する地区は収量水準が低く、収量水準引き上げも目指していたので、翌年、融雪後に観察すると、比較的多くの圃場で冬枯れが認められた(写真A)。生産者の立場であれば、挽回しようと目論んで春の追肥量を増加させるはずである。ただし、正常な圃場に比べて個体数が少ないので、通常より多くの窒素が穂へ転流される可能性がある。それを裏付ける結果の一つとして、冬枯れ発生圃場は同じ葉緑素値であっても正常な圃場より1〜2ポイント高い子実タンパク質含有率となっていた。

従って、子実タンパク質含有率が高くなる冬枯れ発生圃場を除くと、生産現場での普及に堪えうる予測精度が得られた。

増収と子実タンパク質含有率の制御

穂揃期における葉緑素値の調査は、網走市の秋播きコムギ畑の1割に当たる約100ヶ所に及んだ。この調査データを基に子実タンパク質含有率が低くなると予測された畑で、生産者の協力を得て、狭い面積ながら窒素の追肥試験を行った。その結果、ほぼ全ての畑で約1〜2割の増収が認められた。ただし、追肥量を増やしても収量は頭打ちの状態になり、一定量以上に追肥してもさらなる増収効果は期待できないことが分かった。

一方、子実タンパク質含有率は窒素成分として追肥量10a当たり2閧ノつき約1ポイント上昇することが確認された。つまり、追肥量を調節しての子実タンパク質含有率の制御は可能であり、収量の増加も期待できるようになった。

生産現場による技術評価

研究の成果は平成16年2月、「葉緑素診断による秋播きコムギの高品質・多収栽培技術」として発表した。オホーツク網走農業協同組合の全組合員を対象にした営農技術懇談会での発表で、反響は大きく活発な質疑となった。

その年の6月、農協職員から「ある農家がその技術を試してみる」という連絡が入った。秋播きコムギを約9ヘクタール栽培している農家のAさんで、何とその全てに本技術を導入したいという。その後、私が葉緑素値を調査し、Aさんが追肥量を判断した。しかし、窒素を追肥して1週間も経ったころ、強力な低気圧が網走を通り抜け、そのコムギを倒してしまった。穂揃期以降に窒素を追肥しても背丈は伸びないので、倒伏の心配はないと考えていたが、この時の風雨は予想以上に強かった。

Aさんはあきらめなかった。平成17年も本技術を実施した結果、収量が過去最高となり、その畑ではコンバインが大きな口いっぱいにコムギを詰め込んでいた。コムギの出来について、Aさんは「粗原(収穫したままの重さ)で1t/ 10aある」と言う。粗原で1t/10aあれば、乾燥させて篩を通してもおおよそ700〜800s/10aの収量である。

北海道の収量の平均値は468s/10a、また北海道の中でも網走地域(網走支庁)の収量が最も高く568s/10aである。この記録はAさんの経験と技術がなければ達成しなかったであろう。還暦を迎え、後進の指導に当たっているAさんは、不利な土壌条件の畑を持つ生産者へ「チャレンジ」というメッセージを贈った。

世界一のコムギ産地を目指して

また、東京農大の網走寒冷地農場が一構成員である農事組合法人網走農場の推薦を受け、網走市音根内地区でも本技術が採用され、葉緑素値の調査から追肥量の判断まで生産者が実施するようになった。さらには、網走寒冷地農場には、「葉緑素診断による秋播きコムギの高品質・多収栽培技術」の講習申し込みが増えつつある。

これまでの研究について、多大なご協力をいただいた地元の生産者と農協職員にはこころから感謝の意をささげたい。

平成15年の夏、東洋一とされる網走市麦類乾燥調整貯蔵施設(通称、バッカン工場と呼ばれている)が操業を開始した。工場の効率化は低コストに働く反面、各圃場からの収穫物が同じサイロ(貯蔵庫)に入るため、栽培上の品質管理は一段と厳しさが求められる。子実タンパク質含有率の均一化へ向けて、東洋一、いや世界一のコムギ産地と言える日がくることを信じている。

余談ながら5年ほど前から、網走地域では農道沿いに「手打ちうどん」ののぼりがみられるようになった。農家が営む「手打ちうどん屋」である。ある日、他大学のB先生と、そんなうどん屋で昼食をとった。「讃岐うどんのような食感だ」というB先生に対し、私は「いや、地元産のホクシンですよ」と自慢した。

しかし、店に確かめたところ、返事は「ノー」だった。小麦粉には日本の麺用に配合されたASW(オーストラリア スタンダード ホワイト)を使用し、うどんの打ち方は讃岐流だという。日本の食料生産基地として網走の畑作農業は砂糖、澱粉(片栗粉)および小麦粉という原料を作ってきた。その過程で効率化が優先し、地産地消や自家消費という文化が駆逐されてしまったのだろうか。わが勘違いは恥じるほかないが、地域で生産したコムギを使い自信をもってうどんを作ってほしいものだと痛感した。

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