05/09/07
国際農業開発学科 佐藤真理
My
life in the
不思議の国のアリスは日本でもよく知られているおとぎ話のひとつだ。ある日、アリスは暗く長いトンネルを抜けて、すべての常識や決まりがあべこべな不思議の国へと迷い込む。彼女は驚き、興奮し、またあまりの理不尽さに直面し憤る。私にとって、アメリカでの一年間留学はまさにアリスの冒険のようだった。
私は、東京農業大学からの交換留学生として単身ミシガン州立大学へ一年間派遣された。東京農業大学では毎年、数名の学生を交換留学生として様々な国へ派遣している。英語での会話をスムーズに運べるようになりたかったのと、ミシガン州立大学は農学の先駆者として有名な教育機関だったことからアメリカ留学を希望したが、最大の動機はアメリカの総合大学でなら多くの異なる価値観を持った人々に出会えるだろうと確信していたからである。
このように自分自身で留学を決意したにも関わらず、一人暮らしをしたことがなくアメリカに知り合いも全くいなかった私は、渡米前はとても心細かった。成田空港で家族や友達に見送られながら、泣きそうだった当時の弱い自分を今でも覚えている。そして、気の遠くなるような長いフライトの後、大学のあるランシング空港へ到着した。アドバイザーであるジョー先生が迎えに来てくださっていた。そして、アメリカでの生活が始まった。
しかし、当初の留学生活はなかなか円滑にはいかなかった。まず、世界各国からの留学生のために大学のしくみが説明されるオリエンテーションが開かれた。そのオリエンテーションはアメリカ人以外の学生向けだったにも関わらず、私は半分も何を説明されているか理解することができなかった。さすがに危機感を覚え、出来る限り早く英語を習得しないことには生活していけないのだと痛感した。英語上達のため、また一人暮らしは味気ないものだったのでルームメイトと暮らすことを心待ちにしていた。だが三週間経っても彼女は現れず、ついに他の部屋へと移らなければならなかった。
一ヶ月も経つと、アメリカでの生活にもだいぶ慣れて快適に日常生活を送っていた。しかし、ここで転換点となる大きな出来事が起きた。日本で暮らしいている頃は風邪にもかかったことがなかったのだが、高熱のため大学内にある病院へ行くことになった。診察を受けるものの、意識も朦朧とした中で英語にて病状を伝えるのは難しく、医者がどのような処置を行ったのかもよくわからなかった。その後も回復の兆しはなく、数日後の真夜中に激しい腹痛と吐き気で目が覚めた。車の手配をし救急病棟に駆け込んだとき、これで楽になると安心していたが、その後11時間も病室で医師を待たなければならなかった。多くの重症患者がいたのだろうが、アメリカの救急病棟はもはや救急ではないと悟った。この費用は全部で1000ドルもかかったが、幸い日本の医療保険が全額を負担してくれた。二度としたくない経験だが、たとえ困難な状況でもアメリカで一人生活していくには自分自身で対処していくしかないという教訓になった出来事だった。
このような理由で初めの秋学期はかなり欠席してしまったが、次の春学期は毎回の授業全てに参加することが出来た。その結果、私の英語は劇的に上達した。中学校から高校までの六年間、英語を勉強してきたが、正直どれほど身に付いたのかは疑問である。テストがある度に文法や単語を丸暗記したが、テスト終了後にはすぐに忘れてしまっていた。当時の英語はただの受験教科であり、私の日常生活と何のつながりも持っていなかった。対照的に、英語が使えなくてはアメリカで生活していくことは出来ないという危機感があった。大学での英語の授業は興味深く、特に小説を教科書として使う授業が好きだった。クラスでThe Giver と The Outsidersの二冊を読んだ。どちらも思春期向けの本ではあったが、あらすじが複雑で面白く、自然な英語を身につけるのに、またアメリカ文化を理解するひとつの材料としてもこれらの小説は有意義であった。英語のクラスでは、通常クラスを履修するにおいて欠くことのできない作文の書き方についても、詳細に学んだ。日本の大学では論文、レポートの書き方にあまり力を入れないが、この知識アメリカの大学では基本中の基本であり、これから卒業論文を完成させなくてはならない私にとって、非常に役に立つだろう。
ミシガン州立大学の英語クラスは教室内だけでなく、アメリカ文化を知る機会を提供してくれた。特に印象深かった行事が二つある。Martin Luther King Dayには、アメリカにとっていまなお深刻な問題である、人種差別について考えた。日本に住んでいた頃には、異なった人種や日本語の話せない人々と話す機会がほとんどなかった私にとって、初めて身近に差別問題を考える機会となった。もう一つの課外活動は各国のおとぎ話を高校生に話して聞かせるというものだった。高校生がおとぎ話に興味をもつのか、つたない英語をからかわれはしないかと心配していたが、彼らは案外温かく私たちを迎えてくれた。普段、話すことのない高校生と会話を楽しむことができた。
ミシガン州立大学で履修する最後の学期である夏に、アメリカ人の学生と同じよう科目を受講することができた。専攻分野であるアグリビジネスのクラスを履修したかったのだが、夏学期中にはほとんどクラスがなかったので、英作文のクラスと社会学の初心者クラスの講義を受けた。社会学について学ぶのは初めてだったが、アメリカ社会がどのような問題を抱えているのかを知り、世界各地で起こっている紛争、飢餓、不平等などを考えるきっかけとなった。
もちろん大学の講義以外からも、たくさんの経験を得た。サンクスギビングデイ、クリスマス、イースターなどの祝日が来るたびに、友達は私を自宅に招いてくれた。特に伝統のクリスマスは盛大で、もみの木の下でプレゼントを交換した。ハロウィーンにはかぼちゃをくり抜いた飾りを作り、初めてだったのだが思いのほかうまく彫ることができた。これらの友達との思い出がなかったら、アメリカ生活は本当に味気ないものになっていたと思う。
滞在中の一年間に、ミシガン州以外に三つの州を訪れることができた。シカゴには友達と一回、家族と一回行った。家族との旅行では、英語が話せない母と妹に代わって全ての過程を私が決めなければいけなかったのだが、旅行を終えたときには以前より自信を持って行動できるようになった。シカゴにはたくさんの博物館があり、学芸員の資格を持つ私に取って日米の博物館展示の違いは興味深いものだった。アメリカの博物館は、もっと娯楽としての色合いが濃いように感じた。春休みにはフロリダのディズニーワールドに出かけた。ミシガンの何もかも凍るような寒さには嫌気がさしていたので、フロリダの温暖な気候はとても心地よかった。最後に訪れたニューヨークは、もっとも刺激的な街だった。東京のような資本主義的な雰囲気はよく似ているのだが、もっと熱気に包まれていて、もっと混沌としていた。
何か問題が起こった時や、文化の違いに直面し戸惑った時は、アドバイザー、先生、東京農業大学の国際協力センター職員の皆さん、友達がいつも助けてくれた。家族を含め、一年間の留学生活を支えてくれた全ての人に心から感謝している。アメリカでの生活は、私の人生にとってかけがいのない時間となるだろう。アメリカという不思議の国で出来る限りの経験をし、アリス以上に貴重な体験をした一年間だったと思う。