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スーパー農学の知恵

日本人とカリフォルニア稲作

移民農業の成立と発展の歴史

国際食料情報学部食料環境経済学科 教授 立岩 寿一

米国カリフォルニアの商業的稲作は1912年に始まっている。日本では、明治から大正に改元された年である。当時、太平洋岸各州、特にカリフォルニア州では増大するアジア系移民による米需要が高まっていた。それに応えて、積極的に稲作の経験を活かし、その技術を発揮したのは日本人移民たちだった。その後の商業的稲作の拡大、しかし一転、戦後恐慌、大恐慌と続く暗雲、そして日米開戦……。カリフォルニアの日本人稲作史は、日系移民の苦闘の歴史に重なる。

 

技術と経験を活かす

稲作は、ヨーロッパ系アメリカ人が慣れ親しんできた農業とは違い、アジアの農業であり作物であった。水路の建設から圃場造成、水管理等も従来の畑作とは異なっていた。また雨期前の収穫やその他の基礎的な事柄から肥培管理、品種選定等まで、彼らの農業経験では対応できない課題・問題があった。

そのため、アジア系移民の米需要には当初、アジアからの輸入や南部のインディカ種米の移入で対応してきたが、もし稲作に成功すれば、ビッグビジネスとなる可能性を秘めた産業だった。しかし、このような技術的課題が解決されなかったために、カリフォルニア稲作は失敗を繰り返したのである。

そこで、登場したのが日本人移民たちである。日本人はコルサ郡やビッグスなどで果敢に稲作に乗り出していく。アジア人排斥の時代にあって、日本人の技術と経験が大いに活かされたのである。ビッグスなど、カリフォルニア稲作黎明の地は今も稲作の中心地であり続けている。

 

K・Ikutaの稲作農場

カリフォルニアの商業的稲作の技術的基礎を確立した人物、Real Pioneerとして、関係資料には、「K. Ikuta」という名前が頻繁に登場する。彼はビッグス稲作試験場で働いた後、1912年に同胞とともにビッグス周辺で商業的稲作に乗り出した。さらには株式会社形式による移民稲作会社を設立し、最盛期には8,000エーカー(約3,200ヘクタール)もの稲作農場を経営していく。

アメリカ側資料による「K. Ikuta」が、1903年に愛知県から移民した「生田見寿」氏であることを突き止めるには苦労した。「K. Ikuta」一家の写真@に映っている「Jay Ikuta」(生田寿一)氏(1915年生まれ)は、リゾート地で有名なタホにご健在であり、往事をゆっくりと思い出しながら何回にもわたる筆者のインタビューに答えてくれた。

この「K. Ikuta」達の稲作は、1914年の第一次世界大戦勃発によりコメ需要が増大し、巨大な市場が出現したことで大成功を収め、それに刺激されて次々と移民日本人による数千エーカー規模の稲作会社が設立された。当時の日本人は米国籍をとれなかったが、彼らは母国の稲作技術をホスト社会で応用し、またそこの技術と融合させることで移民としての地位を確立していったのである。写真Aは、当時の日本人による稲作風景である。サクラメント平原の広大な圃場で、大型エンジンと脱穀機をベルトで結び、その先には100ポンド袋の米俵が並んでいる。

 

大恐慌による打撃

「K・Ikuta」らの経営は当時のカリフォルニア稲作の中でも大規模だったが、それゆえ経営にかかる資本も巨額に上った。日本人移民は不動産を所有できなかったため家も買えなかったし圃場も買えず、不動産を担保に巨額の経営資金を借り入れることができなかった。そこで彼らが利用したのが動産抵当による資金借り入れだった。

北カリフォルニアの各郡のRecorders Office(登記事務所)には、今でもこの動産抵当を登記した証書が保管されており、それを調べると「誰が、何処で、誰からいくら借りて、どのくらいの規模」の稲作経営をしていたかがわかる。もちろん抵当権を登記する例は極めてまれで、各郡の動産抵当証書は日本人稲作経営のほんの一部を知る手がかりでしかない。しかしそれでもなお、当時の移民日本人のダイナミックな活躍が知れるのである。

1919年、第一次世界大戦が終結すると、コメ市場は急速に縮小し、価格暴落が発生した。いわゆる「戦後恐慌」である。この衝撃は、大規模化を追い求めてきた日本人移民稲作を壊滅に追い込んでいく。移民農業ゆえの経営的脆弱性が顕在化し、日本人稲作経営は次々と破産し、移民日本人が爪に火をともすようにして貯め投資した金も「泡」と消えていった。また稲作経営に融資していた日本銀行(Nippon Bank)、桜府銀行等々の移民日本人銀行も倒産に追い込まれた。横浜正金さえも苦境に立った。移民達が苦しい生活の中で貯めたまた故国に送金するための金も一朝の夢に消えたのである。この事態は、アメリカ型大規模農業という「アメリカン・ドリーム」を実現しホスト社会の経済循環に対応した日本人移民稲作農業が、それ故にまた市場経済の「ダイナミズム」を経験せざるを得なかったことを示していよう。

 

戦争−移民農業の崩壊

それでもまだ、ある程度の移民日本人の稲作農業は存続していた。先の「K. Ikuta」の稲作会社や、サウス・ドスパロスの「國府田農場」(The State Farm)がそれであった。しかし1920年代の農業恐慌をかろうじて生き残ったこの経営も、1941年12月の日米開戦により息の根を止められることになる。太平洋岸の日本人移民は一人2つのトランクだけで強制収容所に送られ、残された圃場は解体・収用と「詐取」の対象となった。

「K. Ikuta」の稲作農場は解体され、「國府田農場」も1,000エーカーの荒れ地を残すのみとなった。大規模農業会社を実現するため、株主にホスト社会の「国籍所有者」を入れざるを得なかった移民日本人稲作会社は、それ故に株主の解散決議には無力だった。農業を営んでいた移民日本人の家も圃場も、荒れ果て略奪の対象にもなった。もちろん彼らに同情、保護してくれた人々も多かったが、4年間続いた戦争は日本人移民農業を崩壊させたのである。

 

戦後の稲作農業

戦後、多くの移民日本人は残念ながら稲作農業に戻らなかった。圃場が借地だったことや戦後の稲作ブームの中で借りられる圃場がなかったこと等がその原因とされている。

そんな中で、戦後再建された移民日本人稲作経営は、「國寶ローズ」で有名な「國府田農場」、単収全米一となった「Yenokida農場」等であった。後者は1980年代にやめており、現在の日系稲作農場は、今やアメリカ最大の稲作農場として日系三世が経営している國府田農場と、「田牧米」の創始で知られる田牧農場の「Nomura Campany」の農場など数農場でしかない。田牧農場はウィリアムスにあり北カリフォルニアの単粒種稲作技術を支えている。またNomura Companyの広大な試験圃場がGlennにあるが、こちらは商社経営が主である。

國府田農場は飛行機による播種が初めて行われた農場であると言われる。1998年まで、故鯨岡辰馬総支配人が経営全般を取り仕切っていた。現在はロサンゼルス近郊にお住まいの故鯨岡氏夫人とともに早朝に訪ねたいろいろな思い出のある地である。

カリフォルニアの日本人及び日系人稲作、総じて日系人農業は、懐かしい友人であるMerry Amemiya女史がいうように、戦争という歴史がなかったならば、「California keep green」の主役たり続けたかも知れない。

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