サツマイモ伝来400余年(中)

人類の貴重な食糧資源

東京農業大学国際食料情報学部 教授

鈴木 俊( すずき しゅん)

1943年静岡県生まれ。東京農大農学部農業拓殖学科卒。

東京農大国際食料情報学部国際農業開発学科(農業開発政策研究室)教授

専門分野: 農業開発普及論、農業教育論

主な研究テーマ: 農村レベルの加工技術と普及、途上国の普及システム評価法の開発

主な著書: 国際協力の農業普及(農大出版)、農業技術移転論(信山社)

サツマイモは、400余年前の17世紀初頭、中国から日本に伝わったと言われている。まず沖縄に導入され、 さらに100年後に九州、本州へと伝わった。江戸時代の深刻な飢饉から人々を救うため、 その導入・普及に尽力した各地の先達の業績を振り返りたい。人類の貴重な食糧資源として今、 サツマイモの効用は大いに見直されるべきだと考える。

普及に尽力した人々<前田利右衛門>

沖縄に伝わったサツマイモはその後九州に伝えられた。導入に貢献した人物は薩摩指宿の浦人(海辺に住む人:漁師)
利右衛門(後に前田)である。利右衛門は宝永2年(1705)水夫として琉球に渡ったが、その折に持ち帰ったといわれている。 この結果同地における「享保の大飢饉」を救ったと考えられている。利右衛門は現在同地で「甘藷翁(からいもおんじょ)」と呼ばれ、 利右衛門ゆかりの地に徳光神社が、またこれ以外の2箇所に頌徳碑が建てられている他、
大隈半島など県内の各地に供養塔が建てられ崇敬されている。余談ではあるが、 このイモから搾った「利右衛門」は、今や鹿児島産の銘柄の一つとして、左党の間では知る人ぞ知る逸品でもある。

この他、九州への経路として、1698年の種子島経路があり、領主種子島久基と休左衛門(後に大瀬)の努力がみられるが ここでは割愛する。

<ウィリアム・アダムズ>

ところで、導入に当たっては日本人ばかりでなく、 わが国に航海術や造船術を伝えた英国人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)や、平戸のイギリス商館長を勤めた リチャード・コックスも努力した人たちである。アダムズはオランダ船リーフデ号の水先案内人として当時の豊後(大分県)に 漂着した人物である。その後、平戸のイギリス商館長リチャード・コックスの命を受け、シー・アドヴェンチャー号の船長として、 タイへ向かう途中乗組員の不穏な動きを察知して、五島に引き返しているが、その際沖縄から持ち帰った一袋のサツマイモをコックスに 送っている。時に1615年6月2日のことで、コックスはその日の日記に「大御所が大阪の城を取り、フィディア(秀頼)様の軍を 滅ぼした」報せを受けたとも記している。6月19日になって、コックスは、「庭を手に入れて、リケア(琉球)から将来された藷を そこに植え」、1年当たり10匁(英貨5シリング)を支払うと記している。すなわち、平戸に菜園を借り栽培を試みたわけである。 しかし、その後の実績は記されていない。現在平戸の川内浦の鳶の巣に「コックス甘藷畑跡」が残っており、この地域ではサツマイモを 「琉球イモ」または単にイモと呼んでいたといわれるが、そうであるとすると、何らかの実績が見られたのではないかと想像される。

まず沖縄に導入

我が国への導入・移転の歴史をみると、位置的に考えても沖縄が最初であろうことは想像に難くないが、『河充氏系図家譜正統(写し)』と『甘藷と野國總管』によると次の2つのルートをあげることができる。先ず、その1つは砂川親雲上旨屋による中国から宮古島へのルートで、もう一つは野國總管による中国から沖縄本島へのルートである。次にそれぞれについて記す。

<下見吉十郎>

その後の本州における普及にはかなりの人々が努力したと思われるが、下見(あさみ)吉十郎もその一人である。 彼は、愛媛県瀬戸内海の大三島の人で、4人の幼児を相次いで亡くすという不幸にみまわれ、その冥福と子孫繁栄祈願のために、 1711年吉十郎38歳の時、諸国の寺社巡礼の旅に出る。その途中薩摩の伊集院村で止宿した百姓土兵衛からサツマイモの存在を知り、 藩外搬出の禁令も、「公益を計るがために国禁を破るが如きは決して怖るゝに足らず」と命を賭して郷里へ持ち帰って普及に努めた。

後述する青木昆陽に先立つこと20数年前のことであった。当時同地では秋に麦を播き春収穫した後に、大豆やアワ・キビなどの穀物栽培をしていた。サツマイモが伝えられると、麦を収穫後、サツマイモが栽培されるようになって食糧事情の好転をみた。この結果当時飢饉時に農村地帯で行われていた、口減らしのために親が新生児を殺すという悲習「間引き」を止めさせることに成功した。また、享保17年(1732)の大飢饉当時伊予の国だけで餓死者は数千人にのぼったが島嶼部では「幸に甘藷を食いて生命を救ふを得たり」と記されているほどである。現在、大三島の潮音山向雲寺には「古岩獨釣居士」と戒名が刻まれた下見吉十郎の墓碑と偉業を顕彰した「芋地蔵」が建立されている。さらに、広島県の生口島や因島などの20数カ所の寺院やお堂などにも下見吉十郎への感謝と崇敬の念から「芋地蔵」が建立されている。
  この他四国では、鳴門金時の礎を築いた西上國蔵の活躍がみられるが、紙幅の都合で顕彰碑(写真)を示すにとどめる。

<井戸平左衛門>

サツマイモの普及には当時の百姓や町人ばかりでなく武士の中にも尽力した人物がいた。先にあげた休左衛門に甘藷を試作させた種子島久基もその一人であるが、ここでは井戸平左衛門について記す。
  井戸は1672年江戸に生まれ、1731年に石見の国(島根県)大森 (現在の島根、広島、岡山県に亘る幕府領地)の第19代代官として赴任している。同地には石見銀山があり、幕府財政を支える重要な天領の一つであったが、着任早々同地帯はウンカの大発生による深刻な凶作にみまわれた。後に「江戸時代の三大飢饉」として知られる「享保の大飢饉」である。不作と飢餓に苦しむ農民をみて、年貢減免措置や村役人や富豪の協力を得て施粥に尽す傍ら、大森の栄泉寺で亡父の法要を営んだ折、薩摩の僧泰永(泰水か?)から救荒作物としてサツマイモの存在を知り、幕府に願い出て薩摩から百斤(約60・)の種芋を取り寄せ普及を試みた。しかし、植え付け時期が遅かったこともあり失敗。彼は農民の窮状を救うため、やむなく幕府の米蔵を開放し、罪を得て切腹(一説には病死)した。その後、福光村の松浦屋与兵衛がただ独り種芋の収穫に成功しており、越冬技術も開発され、寒い地方におけるサツマイモ栽培が可能となって、石見を中心に境村(境港市)など近隣へ普及することとなった。そして、サツマイモと麦との作付体系が形成されて生産も増大し、それ以後多くの農民を飢餓から救っている。井戸平左衛門はその後“芋代官様”、“芋殿様”として人々に敬慕されるところとなり、遺徳を後世に伝えるために文章で書き残す術を知らない当時の農民衆は、報恩手段として「恩は石に刻め」と、芋塚と呼ばれる頌徳碑や供養塔を建立している。現在その数は中国地方を中心に300近くを数えるという。また、島根県大田市には井戸神社が建立されている。

<青木昆陽>

関東で知られている人物は青木昆陽(1698〜1769)である。彼は江戸日本橋の魚問屋の一人息子として生まれ、幼名を文蔵と称した。22歳の時京都へ漢学と本草学(中国に由来する薬物に関する学問)の修業に出かけ、3年後江戸に戻り寺子屋を開き生計を立てていた。その頃後に言われる「享保の大飢饉」すなわち、ウンカの発生による西日本の凶作が8代将軍吉宗の知るところとなり、九州での飢饉の様子を長崎出身の深見新兵衛に尋ねた。深見は、サツマイモ生産により長崎では軽微であり、鹿児島では餓死者なしの情報を伝えた。一方、南町奉行所の与力加藤枝直の推薦により、青木昆陽の能力を知った大岡忠相は、吉宗に「蕃藷考」を著したこの青木昆陽を推挙した。

幕府は直ちに薩摩から1,500個の種薯を取り寄せたが、寒さのため殆ど腐ってしまい、僅かに残った芋を江戸の小石川薬草園、下総馬加村(千葉市幕張)、上総豊海(九十九里)の3個所の畑で試作した。1735年になって予想を上回る4,400個の収穫をあげることができた。これが関東地方におけるサツマイモ栽培の礎となっている。彼の没後40年後に発生した天明の大飢饉の際も馬加村では1人の餓死者も出さなかったといわれる。昆陽はその後幕府の書物奉行となり、没後「甘藷先生」と呼ばれ、千葉市幕張に昆陽神社として祀られている他、東京目黒の瀧泉寺(目黒不動)には「甘藷先生墓」という墓碑が立っている。
  これ以後、各地の先駆者によって、全国に普及することとなったが、この間各地でいろいろな品種改良がなされている。これらについては次回に記す。

引用・参考文献
山田尚二(1994)『さつまいも』春苑堂出版
伊波勝雄他(2004)『甘藷と野国總管』嘉手納町
東大出版会(1979)『日本関係海外史料 イギリス商館長日記 譯文編之上』
学頭和夫『井戸平左衛門』http://www.chukai.ne.jp/masago/idoheiza.files/frame.htm
菅菊太郎『甘藷地蔵 下見吉十郎伝』上浦町教育委員会(昭和四年『伊予史談』より再販)
潮音山向雲寺『芋地蔵縁起』
鳴門金時の礎を築いた西上國蔵翁顕彰碑(鳴門市土佐泊浦)

×CLOSE