サツマイモ伝来400余年(上)

中国から、まず沖縄へ 導入・普及に先達の労苦

東京農業大学国際食料情報学部 教授

鈴木 俊( すずき しゅん)

1943年静岡県生まれ。東京農大農学部農業拓殖学科卒。

東京農大国際食料情報学部国際農業開発学科(農業開発政策研究室)教授

専門分野: 農業開発普及論、農業教育論

主な研究テーマ: 農村レベルの加工技術と普及、途上国の普及システム評価法の開発

主な著書: 国際協力の農業普及(農大出版)、農業技術移転論(信山社)

サツマイモが日本に伝わったのは、400余年前の17世紀初頭、中国からであったといわれている。関ヶ原の戦が終わって、家康が江戸に幕府を開いた直後の頃である。人類にとって貴重な作物でありながら平常は忘れられがちな存在であるサツマイモについて、一部は既存資料の引用、一部は現地調査結果をもとに、わが国への導入・普及についてまとめてみた。

貴重な救荒作物

サツマイモはこれまでの飢饉の際に多くの人命を救ったことは周知のとおりである。今からおよそ270年前に西日本で虫害が原因で発生した「享保の大飢饉」、220年前浅間山の大噴火とその噴煙による「天明の大飢饉」、170年前の長雨と冷害により発生した「天保の大飢饉」や、近くは60年前の第二次大戦中・戦後の食糧難時代である。

サツマイモは最近でこそ、単にエネルギー源としてだけでなく繊維質を豊富に含むなど機能性食品として見直されているが、それまでは救荒作物として取り扱われ、常に米麦の陰に忘れ去られた存在であった。

国連食糧農業機関(FAO)によると、現在世界の人口は66億人といわれるが、このうち8億〜12億人もの人々が食糧難に悩み飢餓に瀕しているという。2050年には地球人口は92〜120億人と推定されるなど、あちこちで食糧危機が叫ばれている折から、サツマイモの食糧不足への貢献を考えると、21世紀の主要な作目として再考する価値がある。

ところで、サツマイモの生産性をみると素晴らしいことがわかる。なぜなら、サツマイモは単位面積当たりのエネルギー生産力が極めて高く、現状の単位収量でも稲の2倍、小麦の3倍、大豆の5倍といわれており、仮に世界の作物を全てサツマイモに置き換えるとすると、なんと108億人を養うことが可能であるという)。

日本伝来に3ルート

サツマイモの日本への伝播経路をみると、次の3つのルートが考えられている2)3)。先ず、第一番目の経路として、メキシコ→ハワイ→グアム→フィリピン→中国→日本、第二番目の経路として、ペルー→マルケサス島→イースター島・ニュージーランド・ハワイ・ポリネシア・メラネシア・ニューギニア→フィリピン→中国→日本、第3番目の経路として、コロンブスが運んだといわれている、コロンブス・ルートで、スペイン→ヨーロッパ・アフリカ・インド・東南アジア→日本である。

いずれにしても、日本への伝播は、直接的には中国から伝わった可能性が高いわけである。そこで、このサツマイモが中国ではどのように見られ、考えられていたかについてみると、中国明朝末期の本草学者李時珍の『本草綱目』は、「甘藷は交(ベトナム北部)、広(広東・広西)の南方に産し、民家では二月を以て種(う)え、十月に収穫する。その根は芋に似てやはり巨魁があり、大なるものは鵞卵ほど、小なるものは鶏、鴨の卵ほどで…海中(辺)人の寿命が長いのは、五穀を食わずして、甘藷を食うがためだ」と書いている。

まず沖縄に導入

我が国への導入・移転の歴史をみると、位置的に考えても沖縄が最初であろうことは想像に難くないが、『河充氏系図家譜正統(写し)』と『甘藷と野國總管』によると次の2つのルートをあげることができる。先ず、その1つは砂川親雲上旨屋による中国から宮古島へのルートで、もう一つは野國總管による中国から沖縄本島へのルートである。次にそれぞれについて記す。

<中国―宮古島ルート>

宮古島への導入には、砂川親雲上旨屋という人物が登場する。宮古の人で、与人役(村番所役人)の時、琉球王府に派遣され、公事を終え帰島の途中逆風(台風)に遭い中国に漂着した。同地で甘藷の存在を知り島民の食料とするに適しているものと考え、3年後に河充氏眞逸等と共に芋を持って帰国の途についた。しかし運悪く再度海上で難船して九州に漂着、回航してようやく帰島し甘藷を伝えた7)8)。時に1597年のことであった。

芋は台風干ばつに強く宮古の風土に適していたため、島民の間に普及し、五穀に代わって主食となった。当時夏から秋にかけて来襲する台風と干ばつは多くの人々を飢えさせ、そのような年を「飢饉」とはいわず「餓死年」とさえ表現していたといわれるが、芋の普及はこれらの苦しみから人々を解放したばかりか家畜の飼料利用も可能であり、家畜飼育を容易にしたと考えられている。まさに島の人々にとっては食料と飼料を同時に生産できる夢のような作物と考えられたに違いない。

砂川親雲上旨屋の宮古島への帰島が台風により中国へ、そこで見つけた芋を持参しての帰島が再び台風により今度は九州へと二度にわたる漂着にもかかわらず命を賭して持ち込まれた芋が宮古島の人々を救うこととなったわけである。砂川親雲上旨屋はその後「ンーヌ主(芋の神様)」として、同島西仲宗根の芋ヌ主御嶽(ンーヌシュウタキ)や松原のウプザー御嶽、上野のユーヌヌス御嶽などに祀られ崇拝されている

<中国―沖縄本島ルート>

中国から沖縄本島へのルートについては、野國總管の努力が知られているところである。野國總管は沖縄県嘉手納(今は米軍基地に埋没してしまった北谷間切野国村)の生まれで、1605年に進貢船の乗員であった彼が初めて中国から鉢植えのサツマイモを持ち帰ったといわれている。

以後沖縄で多くの人々を飢饉から救ったといわれ、先の大戦の折も多くの人々を飢餓から救った。その功績により、彼は「芋大王(ンムウスー)」と呼ばれ、沖縄産業の恩人の一人として讃えられて、現在那覇市の奥武山公園内にある世持神社に祀られている。神社の入り口には「産業恩人祈念碑」が建立され詳しい説明が記されている。また、サツマイモの普及に努めた同時代の儀間真常を讃えた那覇市垣花の住吉神社にも野國總管は「土帝君」として祀られている。 儀間真常は、導入後の島内普及に努めた人物である。彼は、現在の那覇市垣花の人で儀間村の地頭職であった。食糧難に窮する人々を見て、野国總管を訪ねサツマイモを分けてもらい普及に努める一方、「そう芽法:芋蔓を1尺ほどの長さに切って植え付ける方法」を考案した(なお、それまでは芋蔓を輪にして植え付けていた)。

彼はまた、中国から製糖法の技術を導入し、薩摩から木綿の種を持ち帰り栽培に成功するなど、新技術の導入・普及に努めた人物として尊敬されている。当時の琉球王府の三司官(国政を司る3人の大臣)の一人蔡温(1682〜1761:琉球松の導入普及者)は、その著『独物語』の中でサツマイモの有用性を賞賛して、「前代までの人口は7、8万人であったが、今では20万人に増えた」と述べているほどである)。

沖縄から九州、本州への導入には、各地の人々の尽力があった。それぞれの業績については次回に記す。

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