須藤俊男先生について

                        猪俣道也

私は1965(昭和40)年に大学に入学した。それも高校の教科に地学はなかったので、須藤俊男という名も大学に入ってはじめて知った。その後、須藤先生が退職されるまで,学部学生・鉱物研究室の隣の岩石学研究室の大学院生として接した。須藤先生について最初に思い出すことというと、厚くて重い須藤先生の著書「鉱物学本論」(朝倉書店)を神保町の古本屋に買いに行ったこと・少し猫背でとぼとぼ理学部W館の一階の廊下を歩かれている姿・反応鉱物学の講義の時に具体的な事例(鉱化作用の問題・風化作用の問題・生物体と鉱物の関係など)を紹介されたことである。1974年に須藤研究室の立山博さんと超苦鉄質岩中のtitano –penniniteの論文を書いた時に、先生に原稿の校閲をして頂いたことが,講義・実習以外で直接的な指導を受けた唯一の機会であった.須藤先生の逝去を知った時、学生時代のノートを探した。挟まっていた1967年に配布された鉱物学の「講義要綱」を見ると、鉱物基礎論・解析鉱物学・反応鉱物学の講義から、どの様に鉱物学の各専門分野に勉強・研究を進めればよいかが基礎的な物理学・化学まで含め具体的に書かれていた。最近はどこの大学でもシラバス(講義要綱)を公表し、受講者の学習の便宜を図ることが行われているが、40年ほど前に既に先生はこのことを実行されていた訳である。さらに「鉱物学本論」等の多数の著書も講義をまとめたもので、多忙な中よくできたと感嘆するばかりである。私が勤務している大学の職場は、学生数が多く、また専門の仕事だけやっておればよい環境ではない。それで須藤先生が教育について学部時代の講義のとき「学生の教育から研究テーマが見つかることがよく有る。教育と研究は表裏一体であるから、忙しくても講義の前に講義ノートをなるべく書き直すようにしている。」という様な事を発言されたことを、時々思い出す。また、ちょうど筑波移転問題で大学内が混乱している時、教室会議でも学生の発言によく耳を傾けておられ、現状を理解しようと学生によく質問されていた謙虚な姿も思い出す。しかし、自分自身が同じような状況に立ってみると、現状はなかなか大変で、須藤先生をまねようとしても、なかなか真似できない。今更ながら多忙な中で、学生に対応された真面目さ・誠実さに敬服せざるをえない。最後に言葉を交わしたのは、東京教育大学地質学鉱物学教室卒業生のやまぎり会が茗荷谷の茗渓会館で開催された時で、私の近況をかなり詳しくお尋ねになって恐縮した覚えがある。先生は我々学生に対して何時も気を配られていた訳で、少しでもこの様になれれば先生の教えは生かされるのではないかと、現在思っている。

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須藤俊男先生追想集「運命の小路」306-307ページ.2001年5月20日発行)