晩年の牛来さんとやりとり

                            猪俣道也(東京農業大学)

1992年に訪朝して以来、私はこの10年間、北朝鮮の岩石について研究をしている。その関係で朝鮮総督府地質調査所の所長だった立岩 巌さんの残された書類等を直接見させて貰うということで、郡山市開成の立岩寧さん宅を数年前に車で訪れた。帰路に阿武隈山地を横断し原町にまわり、牛来先生を訪問した。それが直接おめにかかった最後である。若かった頃に中国・朝鮮に行かれた時の話など約1時間聞き失礼した。

その後は、研究の節目ごとに近況報告の手紙を書いてきた。そうすると大抵、折り返し手紙かハガキで関連する連絡がきた。たとえば白頭山の写真を送った時は、「小生も昭15夏白頭山に登ったが頂上火口壁に立った時は折悪しく大雨で天池は見えなかった」(cf.火成論への道)との連絡である。また、金策工業総合大学の金錫泰教授は牛来さんのことを文献で良く知っている方だったが、2000年春先に訃報が飛び込んだので、金大中大統領の平壌訪問(6月13−15日)と関連付けた文章を書いた(東京農業大学の「農大学報」(2000年7月刊)という雑誌)ので拡大コピーを送った所、10月に 図1 のような連絡が来た。

2000年の8月ブラジルの第31回IGCに参加後に、杉村 新さんが私の研究室に来られブラジルの話をする機会があった。その時、杉村さんのお祖父さんは朝鮮の「閔妃事件(1895年)」の関係者(一等書記官)で広島監獄に入ったが無罪放免、最後はブラジル第3代目公使になった杉村濬(ふかし)で、ブラジル移民を提唱、リオデジャネイロで客死、墓がリオデジャネイロにあることを知った。私が北朝鮮に関係する研究をしていることは前から杉村さんもご存知だったのだが、この件は外でも話したこと無かったとのこと。そのビックリ仰天したことをまた「農大学報」(2001年1月刊)に書いた。

牛来さんにその記事を拡大コピーして送ったら、 図 2 のような「戦前、フランス在住の杉村という外交官が柔道家でフランスなどに柔道をひろめた話を思い出したが、折を見て杉村君にたずねて下さい。」との手紙(一月二〇日)連絡がきた。それで杉村さんに、直接尋ねてみると、予想どおりで、杉村陽太郎という杉村さんの伯父さんであった。牛来さんの逝去の報を受けたとき、このやり取りの時の書類の消印をみた。丁度1年前(2月6日の原町の消印)に「小生の感が当たったようで愉快です。多謝!!」との葉書(図 3-1. 図3-2..)。牛来さんの喜び様が伝わってくる。また、ハガキの端に更に「杉村大使は昔柔道家の鈴木醇先生とも親交があったかもしれない。」と書かれていた。私に頂いた最後の手紙(8月)にも更にこの事についての牛来さんの考えが出ていると共に、ご自身の目の状況も具体的に述べられていた(図 4-1. ,4-2.)先生の筆遣いや予想が当たったときの喜び様が汲み取れると思い、若干スペースをとってしまい恐縮だが、ここに手紙やハガキを掲載させていただくことにした。「農大学報」の私の記事はホームページ http://www.nodai.ac.jp/teacher/rika に掲載してある。

この原稿を書こうとしている時,小泉総理大臣が9月17日訪朝するとのニュース。朝鮮半島情勢がどの様になるか予想は難しいが、「最近100年の日本史(朝鮮:日韓併合-ブラジル移民-フランスの柔道)」と「外交官の役割」をあらためて興味深く考える機会を牛来さんは与えてくれたようだ。(2002年9月8日記す。)