朝鮮と日本

---10年間で実感したこと

                     猪俣道也

はじめに

北朝鮮につては食料難や電力不足の報道が多い。PHYSICS TODAYという雑誌の20024月号の表紙になった人工衛星から撮影した夜の地球の写真の日本周辺の部分をカットして図 1に示す。日本列島は極端に明るい。韓国もかなり明るいが38度線と中国東北部に挟まれた北朝鮮の暗さも極端である。これを見ると北朝鮮では電力があまり使われていないことが一目瞭然である。このように現在では人工衛星からの写真で地上のエネルギー使用量を容易に読み取れる。私の最近の訪朝は20025月だったが、夜のピョンヤンは前の訪問の時よりは、それでも少しは明るくなっていた。

朝鮮半島の地質に関心を持ち1992年の最初の訪朝から10年余り経過した。滞在は長い時は2週間、短い時は1週間以内だが北朝鮮の地質学者と一緒に野外調査と岩石試料の採取などをして研究交流をしてきて、訪朝は5回になった。この間に感じたことを記しておきたい。

 

動機

人が何か行動する時、前の体験が潜在意識として無意識のうちに働くようである。1992年に私を訪朝に誘った佐藤信次さんは、小さいころ朝鮮で育ったということで前から朝鮮半島に関心を持っておられた。私は大学に入る前はラジオ・無線に興味を持っていた。深夜外国の放送などを聞き受信報告を出すと外国からきれいなカードが送られてきて感激したことを思い出す。また文化大革命前後の時、北京放送局からは多量のパンフレット・カレンダーが送られてきた。私が中国の研究者と抵抗なく共同研究ができたのはこの辺のことが影響したのかもしれない。さらに、漢字文化圏で比較的交流がし易い点もある。それにくらべ朝鮮については関心をあまり持たなかった。私が学生のとき「鉱床学」の講義を担当されていた宮沢俊弥東京教育大学名誉教授(89歳)は朝鮮総督府の地質調査所に勤められていたことがあり、GHQ勤務後大学に移り日韓国交回復後は韓国の地質学者との交流を続けてこられた。私の学生時代は筑波移転の問題で大学は混乱状態であり、まして宮沢教授の研究室は筑波移転賛成派、私の所属した故牛来正夫先生の研究室は反対派に色分けされていた関係もあり宮沢さんとは疎遠であったし、東京教育大学の学生がソウルで捕まった事件もあって朝鮮半島には胡散臭さがあり目を向けなかった。朝鮮に関心を向けるようになったのはずっと後で、中国の地質研究の過程で生じた。

数年前に突然、宮沢さんから大学の研究室に電話がかかってきた。「最近の雑誌であなたの仕事が引用されているのを読んだ。直接北朝鮮の話を聞きたくなったので連絡した。」とのこと。彼が若いころ仕事をされた朝鮮半島のことは90歳近くなっても気になるらしい。しかし漢字文化圏でありながら、ハングルを使うようになった朝鮮半島については私にとっては違和感があった。正直に言うと未だに違和感がある。

私の研究のスタート時は純粋に学問的興味が中心で日本と朝鮮半島との社会的関係については意識して考えないようにしてきた。それは、在日本朝鮮人総連合会及びその関係者に便宜をはかってもらい訪朝を実現したという背景も影響し、逆に政治的側面はなるべく排除して付き合おうと考えたからである。しかし、地質学という学問は野外調査を基礎としており、調査をするときは現場周辺の社会状況とは無関係ではありえない。また地質学関係の在日朝鮮人の友人とのかかわりもあった。

在日本朝鮮人は日本の明治以来の歴史的背景で考えなければいけないことも認識していた。それは学部の学生時代に先輩の大学院生の手伝いということで北海道の炭鉱周辺の地質調査の補助をした時、「日本は朝鮮半島を併合してから、かなりの人を鉱山の労働者として朝鮮から連れてきて働かせた。また敗戦後はそのまま鉱山周辺で働いた人も多かった。」と聞いたことがあったからである。日本の鉱山は、急速に衰退しており、現在操業している鉱山は数えるほどしかなく、ほとんどは閉山後の荒廃した姿だ。だが近代日本を文字通り「地の底」から支えてきたのは日本各地の炭鉱や各種金属鉱山であることは間違いないし、そこで働いてきた人たちである。この人たちの中に多くの朝鮮人がいたわけである。その後、この朝鮮からの労働者およびその2世・3世・4世が生活のため鉱山を離れ、現在は日本の各地で働いている。

 また2000年の秋には1895(明治28)年の閔妃殺害(乙未事変)に、ある地質学者のお祖父さんの杉村という外交官が関係したことを知った。歴史的関係に目を向けるようになった主因はこれがきっかけである。その後少しずつ最近の100年ほどの日本と朝鮮半島との歴史的関係に目を向け、専門の研究のあいまに文献を意識的に読むようになった。

 

日本人の意識変化

2002年の夏は、ある面では日本人の朝鮮半島の人々に対する見方を急変させることが二件起こり、1895(明治28)年の閔妃殺害(乙未事変)以来の関係が変化する時期になったと思える。一つはサッカーのワールドカップの日韓共同開催で、多くの日本人の視野に韓国の国情や韓国人が抵抗なく入るようになったこと。もう一つは、総理大臣の訪朝が公表されてからの状況でその視野が北朝鮮に移ったことである。それまでは朝鮮について活字が新聞に出ることはそれほど多くなかった。しかし、小泉純一郎総理大臣の訪朝以来ほとんど毎日のように目に入る。

日朝平壌宣言の書き出しは「小泉純一郎日本国総理大臣と金正日朝鮮民主主義人民共和国国防委員長は、2002年9月17日、平壌で出会い会談を行った。両首脳は、日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、実りある政治、経済、文化的関係を樹立することが、双方の基本利益に合致するとともに、地域の平和と安定に大きく寄与するものとなるとの共通の認識を確認した。・・・」となっている。

この中の「日朝間の不幸な過去」という記述は10字余りのもので、いかにも簡単なものであるが、朝鮮半島との関係の文献を意識的に読むようになった立場から見ると大変重い言葉として響く。私は祖父が日露戦争に参戦した関係もあり、旅順・203高地という地名などと共にロシアや朝鮮のことについては小さいころ祖父から直接話を聞いている。しかし、私の受けた学校教育での歴史教育は古代から現在に向かい教育が進められてきた関係で明治以降の歴史は時間切れで終わっている。従って、中国や朝鮮半島と日本がこの100年間どのような関係を持ってきたかはあまり教育されていない。日清戦争(1,8941895)は日本と中国、日露戦争(19041905)は日本とロシアで戦い戦場も相手国周辺であると単純に思っていたが、実は戦場は朝鮮半島であったことは最近知った。この戦争の後、日韓・韓日併合(1910年)で朝鮮総督府が設置された。戦時動員など含め労働者として日本本土にきた人の数は1945年の日本の敗戦時200万人にのぼったという。またその大多数は南の韓国からという。その後50万人以上が日本に残る。不幸は、その後に祖国である朝鮮半島が北と南に別れ朝鮮戦争をしたことである。19501953年の戦争により南北どちらを支持するかで対立が起こるようになる。さらに、1959年〜1985年の北朝鮮への帰還事業で93000人が北朝鮮にいったが、その多くの人の故郷は韓国だそうだ。先祖の墓地は韓国にあり、現在は北朝鮮に住んでいるケースも多いようである。日本にそのまま在住している人は、統計によると2000年現在でおおよそ64万人、帰化した人37万人である(数値については「岩波小事典 現代韓国・朝鮮(2002)」を参考にした)

 

時間

地質学や地球科学は他の分野では取り扱わないような「長い時間」を扱う点が特徴と、学生には講義の時に言っている。また、私も朝鮮半島の20億年前や30億年前という古い年代値を示す岩石を扱っていると10年や100年はどうでもいいような感覚になってしまう。

しかし、朝鮮と日本の100年の歴史(三世代から四世代経過)をみると時間は大変残酷であると思える。労働者として朝鮮半島からきた第一世代や第二世代は歴史の流れの中で苦難な時代を過ごし、半島に帰った人・日本に残った人も三〜四世代目が21世紀の社会で生きている。われわれは現実に1秒・1秒を生きている。時間というものは、過ぎるばかりで取り返しができない分、残酷非情に感じる。

一方、時間が経たないと言えないことも良くある。杉村さんが人にはずっと言わなかった身内に罪人が出たことを、先が余りないので私に話されたのもこの例である。杉村さん自身70代半ばの方である。それも2代前の御祖父さんのことで、今から約100年前のこともなかなか言えなかったのである。ほとぼりが冷めるまで人間の心の問題まで含めて考えると100年(3代)が必要のようである。

中国残留孤児の問題・拉致問題のニュースを見るたびに「国とは何か ?」「取り返しのできない彼らや家族の「時間」をどう考えたらよいのか ?」と考えてしまう。

特に拉致問題の起こったころは筑波大学や筑波研究学園都市ができたころのことで、私自身が21世紀は遠い未来のこととしか想像できなかったころである。筑波移転の問題には先ほど触れたが、筑波大学として移転する前は目黒区駒場に東京教育大学農学部があり全国の農業高校の教員養成の中核をなしていた。私は文京区大塚の理学部にいたので知らなかったが。このことは農大の教職課程で働き始めた年度末に「農業科教員志望者を何とか世話して送ってくれ。」という連絡が学生時代の友人からあって、迂闊にもはじめて知ったことである。この友人はその時は県教委の指導主事になっていた。

移転後の筑波大学は農業科教員志望者が激減した状況で、その時はすでに相当時間がたっていた。農業高校では、そのあとを東京農業大学の卒業生が襲うという形が多くなった。襲った東京農業大学卒業生の教員が更に研鑽に励み、東京農業大学の後輩を採用する方向で貢献してもらいたいものである。

聞くところによると筑波大学も巻き返しを計ろうと教員志望者を意識的に扱うようになったとのこと。しかし30年も過ぎると職場も世代が交代し、社会的雰囲気(環境)もかわり、時間をかけないと人事などの変化・効果はすぐには出てこない。

2003年になり朝鮮半島も38度線(DMZ)で南北朝鮮に分断され50年、この時間の経過が問題をよい方向に解決することに働いてくれるとよいのだが。    (東京農業大学教職・学術情報センター教授)

 

 

 

 

 

 

 

図 1 人工衛星から見た地球の夜 (1994年10月から1995年3月の月光などの撮影条件のよいものを合成。PHYSICS TODAY 2002年4月号の表紙より)

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Last updated on January 6,2003. 2003年1月6日