ピョンヤン訪問とヒゲ談義

                             猪俣道也

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、まだまだ近くて遠い国である。

5月3日にピョンヤンのホテルで出した絵ハガキが帰国後の5月13日に自宅に着いた.

前よりも少しは時間が短縮されたが。 最初の訪朝から10年たった今年は、何とか

短期間でも訪朝し研究成果についてはやく協議したいと、年はじめから動き始めた。

4月23日になり訪朝が可能になり、5月2日から5月9日まで平壌に行ってきた。その

時に思いもかけない経験を幾つかしたので、それを記したい。

今までの経過

私の専門は地球科学。地球の歴史は45億年、中国の鞍山(鉄鉱山)に39億年の

年代を示す岩石が発見され地質構造からその延長と考えられる朝鮮半島北部に

同様の岩石があるのではと考え1992年に最初の訪朝を果たした。それから研究者と

交流を開始、岩石試料を採取・岩石の年代測定の具体的研究が始まった。その後、

1995・1998・1999年と計4回の訪問により、研究も進展してきた。1996年には北京

で第30回萬国地質学会議があり、発表した。そこには北朝鮮の科学院地質学研

究所の知人の研究者も参加していたので研究情報の交換も行った。この会議の見

学旅行で14年ぶりにチベットに行った時ヒゲを剃らぬことにした。チベットへは1982年

にも行っており、はじめてヒゲをはやしたまま帰国、その後1987年まで数年のばしたこと

がある。従って1996年にヒゲをはやしたことは私にとっては2回目であったが、1998年の

訪朝の折には北朝鮮の科学院地質学研究所の知人の研究者たちは私のヒゲ面に

ビックリ。2000年夏はブラジルのリオデジャネイロで開かれた第31回萬国地質学会議

で成果を発表・平壌の研究者とも会えるかと期待したのだが彼らは参加していなかっ

たので、2000年末あたりから情報交換のためにも訪朝をはやくしたいと考え、行動した

ところ科学院から5月に訪朝するよう招請状を受け取った。

しかし、出発直前にドタキャンになり、再度調整し8月訪朝の招請状を受け取ったの

で計画を立て直し予定を立てた。しかし、8月上旬またもドタキャン、2001年は大変

滅入った1年間だった。

原因は政治(靖国神社、教科書、従軍慰安婦問題など)問題とのこと。

農大卒業生・農大生

前回までの訪朝時は、在北京の朝鮮民主主義人民共和国大使館領事部でビザを

受け取る関係で北京で1泊、火曜日または土曜日の週2便の航空便で平壌に行った。

今回は新しくできたルート(新潟-ウラジオストック-平壌)を使った。平壌を朝8時にたつ

と新潟に午後2時過ぎに着き、ウラジオストックでのトランジットの時間を含めて数時間

の行程である。

昨年は2回のドタキャンを経験しているのでなかなか旅の準備に心が集中できず5月2日

の出発日を迎えた。午前中、新潟空港で旅行社の担当者からピョンヤンまでのチケット

を入手、13時30分すぎにウラジオストック航空XF8806便の機中の人となり、ようやく地

質学研究所の白竜浚教授に会えるとの期待感がわいてきた。この便は平壌で行われ

ている「10万人大マスゲーム」ツアー団体のための臨時便であった。14時定刻に離陸、

ウラジオストック空港に1時間ほどで到着、高麗航空JS272便に乗り継ぐための手続き

をしている時、私に声をかける人がいた。聞いてみると教え子だという。彼らは私のヒゲ面

で直ぐ判ったらしい。数人の顔をよく見ると確かに見覚えある顔である。東京農業大学

の卒業生で教職課程をとった数人。玉川大学の卒業生1人。私は玉川大学では教職

のための「地学」を非常勤で担当している。学生さんには申し訳ないのだが、大勢の学生

を毎年次々に送り出してゆくと、特別に手のかかる学生以外なかなか記憶に残らない。

話をしたあと集合写真をとり、2時間後ピョンヤンに向けて離陸。

8時過ぎ、見覚えがあるピョンヤン順安空港に降り立った。入国時、若干の手違いで

入国は最後になったが案内人の趙国鉄氏が待ち受けて市内の平壌ホテルに10時過ぎ

到着。大同江に面した2階の部屋に落ち着いた。前回宿泊した大同江ホテルは平壌ホ

テルのすぐ近くだが、火事で焼け未だそのままである。久しぶりのピョンヤンの晩はぐっすり

眠った。一夜明けた3日の朝食のとき、ウェイトレスが私のヒゲが気になるらしく同行した

朝鮮大学校の歴史地理学部の司空(さごん)俊教授に、マルクスだとの評をしたとのこと。

ピョンヤンではヒゲをはやしている人はほとんど見かけず、散歩の時私の顔を見る人が多か

った。

さらに5月4日朝食をしていると女性が我々のテーブルにきて「失礼ですが、もしかすると農

大の先生では ?」と尋ねられた。「そうですが」と答えると農大生の母親で昨日から気に

なっていたのだとのこと。農大3年生の娘さんもテーブルに来て話したところ教職課程は履

修していないとのこと。やはりヒゲでわかったらしい。家族で来ているとのことで、食後一緒に

写真をとる。訪朝時に農大関係者に会うとはビックリ。本当に世の中は狭いものである。

儀礼の万寿台・万景台・宮殿等の訪問をすませ、直ぐ研究者と会えるのかと期待してい

たところ、これが遅れに遅れた。結局7日夕方から研究者との交流ができた。 その間、今

までに訪れたことが無かった広法寺・大城山(270m)・竜岳山(平壌周辺の最高点で

3角点がある、293m)に登る。

ヒゲを剃る

白竜浚教授・崔願偵所長に会い研究成果のまとめの協議が今回の訪問の目的なのだが、

若干の手違いによりなかなか会うことが出来ず、精神的には大変落ち込み今回の訪朝は

失敗に終わるのではないかという考えが何回と無く頭をよぎる毎日が過ぎた。しかし白教授と

7日18時にやっと会え、その時の白教授の大変な喜びようを今でも思い出す。その後、8日

11時に崔所長は駆けつけ、いくつかの問題を処理。その後、前回の訪朝時に会った人や若手

を含め昼は会食し、15時までの極めて短時間だったが、情報交換をすることができ基本的な

目的は達成できた。

8日の昼食時までに私が最も気にしていた主要な問題について、白竜浚教授・崔願偵所長

と話ができ目的を達成したので、私は密かに会食から退席、ヒゲを一気に剃り上げてしまった。

ちょうど剃り終わった時、ベッドメイクに来た女性従業員がノック後入室したが、私の顔を見て

あわてて戻ってしまった。ドアを開け呼び戻し、剃ったヒゲを見せると納得、同僚を呼びに行き

戻ってきてひとしきり大騒ぎ。そこへ司空俊教授も来て、朝鮮語で「仕事がほぼ順調にいった

ので剃ったのだ」と女性従業員告げると、さっきは別人だと思って部屋を出たとのこと。

 司空教授・石河龍博士と記念写真。石河龍博士は1992年の最初から私の意向を汲んで

各機関の調整をし、最大限私が自由に動けるように様々なアレンジをしてきて、今回も司空

教授と共に各機関と私の間の調整で最も苦労した人である。

午後1時過ぎに会議室に行って、また一騒ぎ。白教授からは「元のイノマタさんに戻った」との

発言。時間が限られているので直ぐ午後の情報交換を開始、何とか3時までに主要な問題を

処理。別れる前に記念写真。今回の訪朝は、5日あたりから精神的に初めての訪朝時と同様

な不安感にさいなまれ始め、体調も5日―7日と崩してしまったが、とにかく7日夕方からの24時

間で基本的な目的が達成できたので一安心、ホッとしてホテル玄関で記念写真撮影後、別れ

を惜しみながら別れた。

 研究協議を終え別れたのだが10年間に関係者が3人(金錫泰教授・金鐘来教授・金相録

局長(58歳))も亡くなり、更に7日に会った白龍浚教授(69歳)が1999年会った時より頬が落ち、

私の94歳の母と同様な印象受け、「仕事は早くしないと」という切迫感がヒシヒシと押し寄せ、胸

の中は重い気持ちになっていた。

ピョンヤン最後の夕食は、司空教授が別の方との会食なので、いつもの大きな食堂の23番テーブ

ルで1人でとった。最初は気付かなかったが担当以外のウェイトレスたちがそれとなく遠回りに私の

ヒゲない顔を見ている様子。食後一休みして、自宅に「予定どうり帰国する。」との国際電話をす

るため、それまでにも何回か利用している3階の事務室に行く。いつもの女性事務員(2人)はチョッ

と戸惑った後、「イノマタ ?」と言い、使う電話を指定、私はダイアルをした。この部屋の前に本屋

がありハガキや土産物も置いてある。7日まで仕事が順調に進まない私はストレスを解消するため、

何回かこの本屋をひやかしている。その関係もあり本屋の女性店員も私を良く知っており、それまで

ヒゲのイルボンサラム(日本人)を事務室で話題にしていた様子。私が電話している間にその店員を

連れて来て私の顔をみて3人で騒がしく話をしている。電話がすみ清算をしたが、3人がしきりに話し

かけてくるがチンプンカンプン。しかし、お互いに身振り・手振りで仕事が終わり明日帰るので剃ったこ

とはどうにか通じた様で、4人で大笑い。それまでの沈んだ気持ちが大分和らぐ。

夕食後は特別のことが無い限り、何時も司空教授と散歩をして過ごした。ピョンヤン最後の夜、8時

30分すぎから大同江河畔-金日成広場-解放山ホテル-高麗ホテル方面へと散歩。解放山ホテル

前で司空教授の知人に会う。司空教授と話しながら頻りに私の顔を覗い大分経ってから「ヒゲを剃

られたのですか ?」と質問。今日は司空教授が別の人と散歩していると最初思ったそうだ。そこで、

また電話をかけた時のこと思い出し一笑い。

帰国後

5月9日無事帰国、新潟駅の新幹線のプラットホームで乗車を待っている時、私を良く知っている人が、

眼を合わせたにもかかわらず、目の前を気がつかず無視して通過。別人と思ったらしい。

5月10日に大学に出て不在中にたまった書類等を処理してE-mailをみると、北海道大学の渡辺暉夫

教授が逝去とのこと。彼は私の北朝鮮の研究について何時も激励をしてくれた。彼からは訪朝前の4月

25日にもE-mailを受信していたのでマサカと思った。今回の旅行中、北朝鮮の共同研究者が10年に3人

も逝去していることから、成果は細切れでもドンドン出さないとダメなのだと思っていたところ、ほぼ私

と同年代の人の訃報を知り、人生のはかなさ・短さを痛切に感じている。ほんとうに出来る時に出来る仕事

をしないとダメなのだと改めて思う。

また、帰国後の学生の反応だが、研究室に訪ねてくる学生の中には横顔を見て部屋から出て行き事

務室で聞いてまた入ってくる人が多い。この文章は帰国後すぐ書いているのだが、これから1週間の学生

がどう反応するかが楽しみである。

ヒゲが無くなくなってみると、なんのことはない、皆今までヒゲでしか私を見てなかったのだというこ

とに気がついた。自然現象を観察するときも我々は外見の目立つ所だけ見ていることが多いのではないだ

ろうか ?

                                  (教職・学術情報センター 教授)

(農大学報 114 第46巻 1号 280-285. 2002(平成14)年7月20日発行(東京農業大学教育後援会))

写真 1 アリラン542132分 メーデースタジアムにて)

写真 2  人民大学習堂の前の北朝鮮の測量原点の礎石

写真 3 左:白竜浚教授 中央:筆者 右:崔願偵所長(581250分平壌ホテル2階食堂にて)

写真 4 左:石河龍博士 中央:筆者 右:司空俊教授(581317分平壌ホテル2202室にて)

写真 5 2002598時 平壌(順安)空港を離れるとき。

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Last updated on August 28,2002.