情報・五感・総合演習                         猪俣道也

 

日常生活のあちこちにコンピューターが入り込み、コンピューター無しでは生活に支障をきたす状況に

なっている。そして、何時の間にかIT社会と言われる様になり学生の中にはレポート作成等の時、あち

こちのホームページからデータを安易に取得利用して提出する者もいる。

さて最近、「自然科学史」の講義を担当しているためか「科学的認識とは何か ?」と考えることがよ

く有る。我々が一般的に外界を認識する時は「五感」を総動員して色々な情報を得て認識している。

五感とは(1)目で見る視覚、(2)耳で聴く聴覚、(3)鼻で嗅ぐ臭覚、(4)舌で味わう味覚、

5)皮膚で感ずる触覚である。人間はこの五感の中の視覚と聴覚でかなり遠方からの情報を得るこ

とができるが、臭覚・味覚・触覚では残念ながら近距離のせいぜい手の届く範囲の情報しか得られない。

動物によっては遠方の臭いを嗅ぎつける種も有る様であるが。

IT社会で伝わってくる基本的情報は、電気信号で伝わる視覚的情報と聴覚的情報である。人工衛星を

使った通信が容易にできる時代になり、瞬時に世界の情報が迫力あるテレビ映像として見られる。

ラジオのニュースでは得られない情報がテレビでは瞬時に見て得られ、9月のニューヨークの事件の時

も、テレビ映像を見てその事件の凄さにビックリした。「百聞は一見にしかず」と言うように映像で見

ると、確かに聞くことより情報量は多く、瞬時に多くのことが理解できる。しかし、情報にはそれだけ

では判らない情報もある。私も良く使っているE−メールは確かに便利である。E−メールは電話のよう

に相手の仕事を中断させず、手紙と同様に相手の人の時間の良いときに見てもらえるし、外国の人との

やり取りでは話すわけでは無いので手紙と同様に考えながら書いて完成したら送信すれば良いという便

利さがある。しかし、直筆の手紙から受け取る情報は規格化されたもの以外の書いた人の各種の情報が

入っているし、電話は受話器から聞こえる声の調子などから、話している人の感情・体調等も認識でき

る場合がある。E-メールの様に規格化された情報は、その価値(内容)まで規格化されたかのように錯

角する。

規格化するためには何段かの規格化の手順を経なければならないのが今までのしきたりであっ

た。例えば、学会誌の論文は、編集者や何人かの審査員の目を通過しチェックされ、更に編集者の何回

かの校正という作業を経て初めて印刷にまわされ読者の目に触れることになる。本の場合も完成するま

でには、編集者・著者等の何回ものチェック・校正を経て出版に到る。この過程で誤り等が修正され、

より規格化された情報になり、厳格にこの作業を遂行している出版物や新聞ほど、多くの人の信頼を得

てきた。

現在、多くの人がインターネットでE-メールやホームページ利用できるようになり情報の共有化の方向

に向かっているように見える。しかし、現実に流れている情報はそれぞれ重みが異なるものであるが、

形式が同じであると同じ重みで我々は受け取ってしまっている。どの情報が本物で、どの情報が偽物か、

何時も批判的に現場の情報を受け取る訓練をしていないとデマに惑わされてしまうことになるが。

典型的な事件が、最近判明した考古学の分野の事件である。何処かに批判的勢力がいれば、ここまで歯

止め無く教科書まで関係する事件にならなかったであろう。また、このことは反面教師として、教科書

という印刷物に書かれていることが全面的に正しいとする教育のあり方にも一石を投げかけている。

何時も多面的に認識する訓練が、物事を批判的にみる「批判的な見方」を可能にする。ニューヨークで

起きた事件も結局は人間が起こした事件であり、人間が考えたものである。細心の注意を払えば、或い

は事前に情報をキャッチできたかもしれない。自然現象の情報は広範囲のスペクトルの情報を出している。

各種の情報を多面的にキャッチできるかどうかは、その情報を受け取った人が五感を働かせることと、

それまでの経験の蓄積をフルに生かし、その蓄積をもとに判断できるかどうかによっている。インター

ネットのような仮想(バーチャル)の社会では五感を動員する状況は生じない。また、流れる情報も規

格化の基準が一定では無い各種レベルの情報である。この文章もコンピューターを使いキーを叩いて作

成している。ペンを握って書くのとは違い規格化されたキーを叩くだけでペンを動かす時の自在さは無い。

今年度の教育実習を無事に終えた或る学生の教育実習日誌に実習校の先生が実験の授業について次のようなコメントを書かれていた。「職人技というのはとにかく回数をこなして秘伝のコツを身に付けてゆく

ことだから、うまくいかないことについては“だから繰り返しの練習が大切なんだよ”と生徒達に教え

てあげれば良い。失敗もまた大切な学習である」と。また、別の学生の実習日誌では「教え方は上手い

に越したことはないが、実習生なのだから下手なのは当然である。しかし、教えている時の先生(実習生)

の如何にも生物が大好きだと言う情熱が生徒に伝わり、先生に教わった生徒の中に生物をやりたいとい

う生徒が出てきました。私も勉強になりました。」と。技とか情熱・迫力というものはその場にいない

と伝わらないし、実感できない。

モノの本質を認識するためには、実践の過程で頭だけでなく五感を働かせる経験を積むことが重要である。

いわゆる know how(ノウ ハウ)に含まれるコツとか勘(技術 Technology)は五感を総動員させるこ

とと経験の蓄積によって形成される。しかし、コツ・勘・間合いというようなSence of proportion 

は、やはり規格化がなかなか難しい。コツ・勘・間合いの習得には経験・体験が必要であり、時間が

かかる。この点、ボタンを押せばスグ答えが出る様な現代社会にある面では馴染まない。

 最近、大学で教員養成をする教職課程でも新しい必修科目として「総合演習」を開講しなければなら

なくなり、また既に小・中学校等では「総合的な学習」の時間が実施され始めている。これらの科目は

物事を多面的に認識する訓練・批判的認識をするものとして位置付けることができるが、果たして目的

を達成できるだろうか ? 時間の問題(演習ではあるが1コマ90分を15回)・人数の問題等を色々考え

るとその運用の仕方にはかなり制約が生ずる。大学のこの「総合演習」をどの様に運用するかは教員の

裁量に任され規格化されていない。これは運用する側にとっては大変な重荷になるが、規格が無いので

逆にいい加減でも良いことにも受け取れる。物事を多面的に認識する訓練・批判的認識をする訓練は日

本の学校教育ではあまり行われてこなかった側面があり、これからが教員の正念場である。担当する

我々教員も「総合演習」を試行錯誤しながら運用、そのコツを時間をかけて体得していくしかない。

  (教職・学術情報センター 教授)

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(農大学報 113. 第45巻 第2号 169-172.       平成142002)年11日 東京農業大学教育後援会発行)