朝鮮半島の地質研究余談・・・事実は小説よりも奇なり(訪朝中止--フランスの柔道)

                                    猪俣道也

ゴールデンウィークの訪朝中止 

一九九二年の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)訪問以来、地質学者との交流も徐々にではあるが進んできた。二〇〇〇年八月には地球科学関係の会議としては長い歴史がある第三十一回万国地質学会議(IGC)(ブラジルのリオデジャネイロ)に参加・研究発表(朝鮮半島北部の太古代岩石の年代について)した。平壌には一九九九年のゴールデンウィークに四回目の訪問をしたが昨年はブラジルでおこなわれた学会の折に北朝鮮の研究者に会えるかと思い訪朝しなかったので、今年は、共同研究の進展状況を確認しあうべく寒いうちから訪朝計画を立てた。

在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)の担当者をとおし科学院と交渉を開始、三月初めに招請状が手元に来た。それでゴールデンウィークを利用して訪朝する計画で航空機の予約をして、大学にも国外出張の申請を出し準備を進めた。日本とは、未だ国交が無いので北京の朝鮮民主主義人民共和国大使館でビザを取得してから平壌に行くことになる。北京-平壌便は火曜日と土曜日の週二便なので、前日に北京でビザを取得、平壌行きに搭乗することになる。ところが、出発(四月二七日(金))の一週間前の四月一八日(水)夕刻に連絡が入り、計画を一週間延期して入国を五月五日(土)にしてくれとのことで、困惑してしまった。丁度、この連絡の後に朝鮮総聯の担当者が出張で平壌に行くので、円滑に訪朝できるようにしてくるとのことで安心し、とにかく至急対応策を講じなければと、航空機等の予約を変更をするとともに授業等の対策も何とか処理した。五月五日の北京-平壌便は空席待ちだったが、四月二八日にやっとOKになり、五月四日の北京行きのNH九〇五便での出発をめざし、研究室で本格的な旅行準備に入った出発の二日前の五月二日(水)午前一〇時頃、朝鮮総聯の担当者から連絡が入り、「北京でビザが出ないことになったとのこと。 科学院の事情ではなく政治的な事情でのことでどうしようもない。」と。呆然 !! 

最初の訪朝の時はハラハラしたことが何回も有ったが、その後の三回は比較的順調に訪朝できたので、マサカと呆然自失。同行予定の地方の研究者は既に成田に向けて荷物を発送済みでした。旅行取消の処理が進むとともに気分は滅入り二日の午後はボーッとして過ごす。

翌日三日(木)は自宅で、ボーッと何もする気にならず昼のニュースを聞くともなしに聞いていたところ、「日本に偽造旅券で不法入国を試みて五月一日朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金正日(キム・ジョンイル)国防委員長の長男、金正男(キム・ジョンナム、二九)氏と推定される人物が逮捕された」とのこと。この事件が今回の私の訪朝中止に関連しているかどうかは不明だが、事態の推移が妙に気になる。その後のニュースで「金正男氏と推定される人物および同行の三人が四日,日本政府の国外退去処分によって午前一〇時四五分、成田空港を出発,午後二時二二分(日本時間)、全日空機九〇五便で中国の北京にある首都空港に到着」とのこと。その後、彼らは五日、北京発の高麗航空JS一五二便で平壌に向かうとの情報があったが、確認されず、午後〇時半すぎ、約一時間遅れでその便は北京空港を離れたとのニュース。これらの便は本来ならば私たちが乗っていたはずのモノであったので、妙に腹立たしかった。

今回訪朝できていれば、最近の平壌の状況等をここに書く予定であった。しかし、不可能になったので、ことの顚末と本誌にブラジルでの国際学会出席したことを記したことがキッカケで、フランスに柔道をひろめた人の関係者が意外に近い存在であることが判ったので、それらを記しゴールデンウィーク末を過ごし気持ちを静めることにした。

なお、北朝鮮の科学院から、四月三〇日付けの「中止について」の書類を後日入手した。

フランスの柔道

昨年のブラジル旅行後に幾つかの興味ある事柄が見出されたので「第三十一回万国地質学会議に関連して・・・事実は小説よりも奇なり(ブラジル移民と日韓併合)」と題して本誌の前号(農大学報 一一一 第四四巻 第二号、一七四-一七八ページ)に書いた。この記事を私の恩師の牛来(ゴライ)正夫先生(一九一六年生。元東京教育大学教授)に送ったところ、「戦前、フランスに柔道をひろめた外交官に杉村という人がいたことを思い出したが、もしかすると杉村君の関係者ではないか ? 機会があったら確かめてくれ。」と手紙(一月二〇日付け)の連絡がきました。牛来先生は若い頃に顕微鏡観察で目を酷使されたため網膜剥離を患われ視力が弱く大きな文字でないと読めないので大きな文字で書くか拡大コピーをして手紙等のやりとりをする状況で、この手紙もサインペンの大きな文字できました。杉村 新さん(元神戸大学教授)は、本学の非常勤講師として「地学」の講義を数年間お願いした先生である。杉村さんのお父さんは東京文理科大学(東京教育大学―筑波大学の前身)の学長を務めた人であることは前から知っていたが、御祖父さんが外交官(第三代目のブラジル公使「杉村ふかし」)でブラジルで客死されリオデジャネイロの墓地に埋葬されていること・ブラジル移民の発議者・「閔妃(みんび)事件」関係者で「在韓苦心録」の著者であるのを知ったのは、ブラジルから帰って来てからである。

さて、二〇〇一年一月三〇日(火)に一緒に昼食をとろうということで、杉村さんが研究室に来られたので、柔道家の件を話したら,牛来正夫先生の推測どおり。その柔道家の外交官は杉村陽太郎(一八八四〜一九三九)という名で、「杉村ふかし」の長男であることがわかりました。 そこで早速、牛来先生にサインペンの大きな文字で推測が当たった由、手紙を出しましたところ、「冠省 早速例の件について御返事を頂きありがとう。戦前フランス辺で柔道をひろめた杉村大使はどうも杉村 新君の縁戚の人の様に思われたのでお問い合わせしたのですが、小生の感が当たったようで愉快です。多謝 !!」(二月六日)とのハガキがきました。そのハガキを読みながら、私の文章が思わぬ反響を呼び私もなんだか嬉しくなってしまいました。

杉村さんからは、後日いろいろお調べになったらしくかなり長文のE-メールが届いた。その一部をここで利用させてもらうことにする。杉村 新さんのお父さんの欣次郎(一八八九〜一九八一)は「杉村ふかし」の次男で杉村陽太郎の五つ年下ですので、杉村陽太郎は杉村さんの伯父さんにあたる訳です。

〈 杉村陽太郎は一二才から一八才の間、両親が在外中のため,嘉納塾に預けられ柔道はもちろん,嘉納治五郎の考えで,水泳にも上達した。一九〇一〜〇四年、第一高等学校生徒.柔道部と,二年生からはボート部に所属した。一九〇五〜〇八年、東大法科英法の学生。新渡戸稲造が一高の校長になったが,一高の先輩として,「毛唐を女房にしている校長の排斥運動」の先頭に立った。陽太郎は和風の思想,新渡戸は洋風の思想で,ぶつかったのであった。しかし,この運動のためお互いの理解が深まり,陽太郎はのちに新渡戸の人間性に傾倒することになり,また新渡戸は陽太郎の実力と,強い責任感,心配りの深さを認めるようになった。一九〇五年には講道館の紅白試合で,のちに十段となった三船久蔵と対戦をして勝った。また、同年、大阪毎日新聞社主催の大阪湾横断(大阪港から神戸東灘住吉川河口まで)の一〇浬(18.5km)の競泳に六時間一〇分の記録で優勝した。これは日本で初めての長距離競泳であった。一九〇八年、大学卒業の二年前に,外交官であった父親がブラジルで亡くなったこともあり,その志を継いで,外交官試験を受けた。学生時代にスポーツばかりしていたためもあり,学業は芳しくなく,試験は受かったが三番の成績であった(何人合格したかは不明、三人かもしれない)。日本にフランス語のできる人が少ないという理由で,外務省から研修のためフランスのリヨンに派遣された。一高でも大学でも英法科にいたので,フランス語を学習する必要があった。それで,リヨンの大学で,フランス語と国際法と両方の勉強をした。一九〇八〜一二年の間、リヨン在住。この間にフランス語で「海港国際制度論」という分厚い論文を書き,法学博士の称号をえた。水泳のクラブに入って優勝したり,個人的に何人ものフランス人に柔道を教えたりしていた。また,水泳の達人達が何度も失敗しているドーバー海峡横断に挑戦しようと考えた。準備段階で,ロンドンにある日本大使館に連絡をしたところ,駐英大使に中止を勧告されて,断念した。一九一三〜二〇年、外務省に勤めた。中国などに派遣されたこともあったし,条約局の課長になったこともあった。

しかし,外交官としてのデビューは,このあとである。一九二一〜二二年には軍縮会議の随員となる。 身長一八〇センチメートル,体重一二〇キログラム,柔道六段の巨漢で,通常の日本の外交官の持っていない資質を備えていた。IOCの委員もしていた。一九二三年にフランス駐在一等書記官となる。一九二四〜二六年にはパリの大使館にいて,国際連盟日本事務局員となる。(当時の名称は多分「国際連盟帝国事務局」というのだと思います。)一九二七〜三三年、ジュネーヴ在住。新渡戸稲造の後任として,国際連盟事務次長兼政務部長。これは国際紛争の平和的解決を図る仕事だった。任期四年だったが,乞われて二年延長し,六年在任した。新渡戸は,陽太郎がまだ若かったけれども,よく知っていたので,後任をまかせたという。当時事務総長はイギリス人ドラモンド,事務次長は日仏独伊の四人いた。始めは,ヨーロッパのあちこちでおきる紛争問題に尽力していた。ところが,三一年に満州事変がおこった。それからの一七カ月間は,その問題の解決のために,不眠不休の努力を重ねることになる。三三年の始めに,杉村・ドラモンド最終案というのが出されたが,一方 日本政府は松岡代表を送って,日本が国際連盟を脱退してしまった。陽太郎は「風船の糸が切れた」思いをしたという。一九三四〜三六年 在イタリア大使.一九三五年 JOCの委員として,次回オリンピックの開催地を決めるIOCオスロ総会で,孤軍奮闘した。ムッソリーニ首相を口説いて,ローマに決りかけていたのを,東京に誘致した。一九三七〜三九年、在フランス大使。この間も,フランス人に柔道を教えていた。一九三九年,帰国後,死去。

杉村陽太郎の娘によると,会議の前には,フランス語の演説の原稿を何度も声に出して練習していたという。リヨンでは,そのために声楽も習っていたらしい。努力家だったようだ。また,ある友人によると,晩餐会の前には,フランスの古典の中のこれぞという文章を暗記して,晩餐会のスピーチの中でそれを引用するという,気の利いたこともしていたようだ。 〉

 ここまでが、杉村さんからの情報だが、牛来先生が私の文章がきっかけで思い出されたことを含め、人のつながりの不思議さに杉村さんも私も驚いてしまった。

 記録すること

 この柔道家の件を話題にして杉村さんと会食した時、案外近親者の経歴は知らないもんだ、自分のことを案外子供たちには話していないんだという話題が出ました。よく考えると私も父が八七歳で一九九四年に逝った時、その経歴をあまり知らないことに愕然としたものです。そこから話が発展し、先輩・友人の亡くなったあと追悼文を書くとき、記録があると書きやすいが記録に案外残っていないことが多いと。

それで、頭の中にあることは死んでしまえば誰も知られず消えるのだから、生きているうちに記録を残すこと・子供たちに伝えることが大事だということになり、杉村さん自身、自分のことを子供にあまり話したことが無いと反省しながら帰られました。

この原稿の下書きを杉村さんにメールで送ったところ、〈自分で経歴を書留めておくと,死んだあと残ったものが便利です.ぼくは自分の友人が亡くなって,その生涯を知る必要(追悼文など)があったとき(実は何度もあります),つくづくそう思いました.そのことは,あの時昼食をとりながら,お話ししたと思います.(これはご原稿につけ加えても加えなくても,ご自由です.)ただし,ぼくは、まだ書いていません.〉との連絡がきました。

今回、牛来先生が私の文章を読まれたのがきっかけで柔道家のことを思い出されましたが、一つの記録が次の新しい事柄を呼び覚ますということは自然科学でもよくあることです。思いがけず偶然発見することをserendipityと言いますが、自然現象の事実とか記録に残されているものを気付く能力は感性・知性・理性の総合力によると思います。しかし、記録が無ければ気付きようがありません。この点で、失敗例を含め記録することは大切です。記録に残しておけば後世の人がその記録から次の新しい事柄を呼び覚ますかもしれません。記録を後世に伝えることは教育の基本に関わる大事なことです。

ふり返って自分自身について見てみると話すことは比較的らくですが、いざ自分自身が研究したことを論文に書き始めると途中で筆が凍りつき進まなくなることが多く、ままなりませんが。

(教職・学術情報センター教授)

戻る


農大学報 112 第45巻 第1号 244-249. (2001(平成13年)720日 東京農業大学教育後援会発行)