第31回萬国地質学会議に関連して:

事実は小説よりも奇なり(ブラジル移民と日韓併合)

                        猪俣道也

 

2000年8月7日から世界の地球科学関係の会議としては長い歴史があり、規模が大きい第31回万国地質学会議(IGC)がブラジルのリオデジャネイロで開催された。私は参加・研究発表するとともに南米の三十億年前後の地質を見てきた。 この会議参加に関係して、幾つかの驚いたことに遭遇したので、それを記しておきたい。この会議は、オリンピックと同じように4年ごとに開催され1992年京都(第29回)、1996年北京(第30回)で開催されている。次回の第32回(2004年)はイタリアのフィレンツェで開催されることがリオデジャネイロで決まった。地質関係の会議には地質見学旅行がつき物だが、特にこの会議は長期間で、会議前の見学旅行から始まり、2週間の会議の中間の週末にも見学旅行、また閉会式後に見学旅行と企画されていて、全てに参加する人は1ヶ月以上の旅になります。本学は7月下旬まで試験で成績評価も8月下旬までということもあり、今回は会議と会議中の週末の旅行、会議後の南米で最も古い岩石(34億年)が分布する地域(サルヴァドール-ヴィトリアデコンキスタ間)の地質見学に参加してきた。

近年、私は主として朝鮮半島北部の太古代岩石の年代について研究を進めてきた関係もあり、共同研究をしている平壌の地質学者にも会議中に会えればとの期待もあった。しかし、残念ながら前回の北京の時には会えたが、今回は誰も出席せず、中国・韓国及び西欧の地質学者との交流が中心になった。南米訪問は初めてということと、ブラジルの組織委員会との連絡も順調でなく、6月末まで委員会からの音沙汰が無く大変不安であった。

話はさかのぼるが、2000年3月に東京工業大学の平田岳史さんと朝鮮半島の岩石の年代測定を共同研究で進めているので、研究打ち合わせのため大岡山の研究室を訪問した。打ち合わせ後に正門の近くにある地球史資料館を見学した。その時、私の名を呼び、「北朝鮮を訪問するときには一緒に行きたいので是非声をかけてくれ」と話しかけた人がいた。その人は元木昭寿さんという人で、神戸大学理学部地球科学科修士課程修了後にブラジルに渡り、サンパウロ大学の博士課程を修了し、現在はリオデジャネイロ州立大学で教鞭を取っている人であった。最近、東京工業大学の人と共同研究を進めているということで、ちょうど来日している時に会った訳である。後日、ブラジルへ帰った元木さんからEメールが届き、また杉村 新さんからもEメールがきた。 杉村さんは神戸大学を定年退職後、お住まいが同じ世田谷区ということもあり、本学の非常勤講師として「地学」の講義を数年間お願いした経緯がある。元木さんは杉村さんの教え子で、杉村さんとの関係でブラジルに行ったということをその連絡ではじめて私は知った。その時の元木さんの文章を今でも思い出す。「恩師の杉村先生には足を向けることができないのだが、ブラジルは丁度、日本の反対側で立っていれば足が向くので如何ともし難い。」との内容である。今回のブラジル旅行では、彼に迷惑をかけないで進めようとしていたのだが、6月になっても会議後の見学旅行の日程が明確にならず、思いあぐねて7月になってリオデジャネイロの元木氏に援助を求めた。彼は、すぐに組織委員会で私の名があることを確認、詳細を連絡してきてくれた。とにかく日程等がほぼ決まり、発表の準備も進んだので、彼に東京からのお土産を持っていきたいが希望のものがあるかたずねたところ、数日後の朝、Eメールを開けてビックリ。「うちのおかみさんが、珈琲をほしがっています。日本の珈琲はブラジルの一級品で当地では手に入りません。ブラジルで売られている珈琲はカスばかりです。生協の徳用袋で結構ですのでお願いいたします。それに子供は即席ホットケーキが所望らしい。これはブラジルでも買えますが(笑)。もしあればですが、ダイヤモンドコーティングされた小型やすり(東工大の生協にはありました)。別になくてもかまいません。でも本当に欲しいのはこのような物品ではなく、科学的なお話です。ここに住んでいますと、どんどん時代遅れになっていきます。日本に行けば腰を抜かすような話ばかり聞きます。---」とありました。まさかブラジルへコーヒーをお土産に持って行くことになるとは、それまで私は夢にも思いませんでした。確かに滞在中飲んだコーヒーは香り・味が良いといえるものではありませんでしたが。

さて、到着時には彼がリオデジャネイロの空港に待ち受けてくれるということで、とにかく珈琲等も準備し出発した。途中、サンフランシスコで給油する直行便に乗ったはずが、サンパウロで別の機種に乗換えるとは。これもビックリ。 多くの乗客は知らなかったらしい。たまたま私の隣の席にJAICA派遣の方(熱帯病研究者)が居て前もって「経費削減で別の機になることが良くある。」と教えて頂いていたので驚かなかったが、その方も最初の時はビックリしたとのことであった。後で元木さんに聞いたのだが、リオデジャネイロ-サンパウロ間は他から飛んでくる便の空席を使っているのだそうである。出発から約24時間後、リオデジャネイロの空港に朝方到着、元木さんにあうことができた。日本の裏側で、時差12時間なので時計の針はそのまま動かさず使用できるが、昼と夜が逆転しているので、日本に電話はウッカリかけられない。会議は次の日から始まったが会場が市内から約1時間もかかる所で,更に会場の周囲に殆んど何も無い場所であった。従って、元木さんの教え子の若干英語ができる学生さんに、1日市内見物に連れて行ってもらった以外は、会議中は、時間をつぶす所があまり無く、比較的真面目に多くの発表を聞かざるをえなかった。 しかし、講演要旨の数は5千件を超えていたがキャンセルも多く、多種の研究者との雑談でつぶした時間もかなり長かった。

 週末には、リオデジャネイロの北西部に位置するペトロポリス(1897年日本公使館が最初に設置された所)という高原都市(標高2000Mほどの高地)へ1泊2日のバス旅行をした。参加者の中に日本人は唯一人で若干心細かったが、岩石が露出している所で止まると、そこは専門同士の気安さで比較的短時間で打ち解けることができた。その中にチュウリッヒのETHのギュンター(D.Gunther)さんという、赤いGパンをはいた若い人がいて、東工大の平田さんを知っているとのこと。平田さんは、私が共同研究でお世話になっている人である。

今回の旅行で、帰国後に驚いたことが2件ある。その内の1件がギュンターさんのことである。10月、共同研究の打ち合わせのため、大岡山の平田さんの研究室を訪ねた。ブラジルでギュンターさんに会った時「平田さんに宜しく。」と言っていたと伝えた。分析化学者の世界は、私は門外漢で何も知らなかった訳であるが、平田さんに聞いてビックリ。ギュンターさんは東ドイツで生まれ、東ドイツの大変物資の無い社会でレザーによる分析技術を開発し改良し、その開発技術はドイツが統合された時、世界のトップレベルであったので、スイスに招かれ、今も世界最先端の分析機器を作りながら研究を進めているとのこと。大変気さくな人だったので、あまり神経を使わず色々しゃべってきたのだが、そんな天才的な人と全く思えなかった。 30代半ばでETHの教授であるとは、全く人は見かけでは判らないものである。彼の開発した機器を東工大でも導入するとのこと。大変厳しい分析条件をの設計で出したのだがすべて条件をクリアーした機器だそうである。何処で人の関係がつながるか、世界は狭いものである。

もう一件は、杉村 新さんのことである。杉村さんのお父さんは東京文理大学(東京教育大学―筑波大学の前身)の学長を務めた人であることは前から知っていた。御祖父さんが外交官(第3代目のブラジル公使)でブラジルで客死されていることを知ったのは、ブラジルから帰って来てからである。それは9月に私の研究室に杉村さんがこられ、昼食を一緒にとっている時であった。御祖父さんはリオデジャネイロの墓地に埋葬されているとのこと。リオデジャネイロの市内見物の時に、キリスト像があるコルコバードの丘(標高710M)から遠望したとき市街地と山の間に広大な墓地が見えたのだが、まさか杉村さんの御祖父さんがそこに眠られているとは。更に、御祖父さんがブラジル移民の発議者であるのを聞いて更に驚いてしまった。本学卒業生の校友会にもブラジル支部がある。気になり、図書館で「日系ブラジル移民史」(高橋幸春、1993。三一書房)を開けて見たら三代目のブラジル公使「杉村ふかし」と言う名が有るではないか。その本によれば、杉村は1905(明治38)年ブラジルに着任、大統領に謁見、その時視察のことに触れたため大統領が特別車を提供、それを使いミナスジェライス州・サンパウロ州を視察、大歓迎された報告書を外務省本省に送っている。彼は1880年外務省に入省,1895年に韓国の日本公使館書記官を務めている時「閔妃(みんび)事件」が起き、その首謀者の一人であって、容疑者として広島の拘置所に留置、証拠不十分で釈放され、「在韓苦心録」を書いていると本に書いてあった。

その後、再入省しており、反日的な韓国に比較し、丁度日露戦争に勝った直後で、大国ロシアをアジアの小国日本が破ったという状況下、日本からブラジルへ来たということでの歓迎を親日であると錯覚したため、沢山の移民賛成の報告書を短期間に書き本省に送った。 なお、2代目公使までは移民反対であったようである.「ブラジル移民の創始者」と呼ばれる水野龍も杉村報告に触発され1905年12月横浜から船出し、杉村と会って、移民計画を立てた。 しかし、杉村は1906年にリオデジャネイロで客死、日本移民が始まったのは1908年である。

さて、杉村 新さんは神戸大学に勤務している時、在外研究でブラジルに行き御祖父さんの墓参りもされている。その時、ブラジルの大学で日本から有能な学生を派遣しないかと杉村さんに話があり、その話に乗ったのが元木さんとのこと。

私は朝鮮半島の地質に関心をもち始めた段階で、それなりに朝鮮半島史を読み「閔妃事件」という大きな事件があったことは認識していた。しかし、その関係者が身近にいるとは驚きである。また、元木さんが朝鮮のことで私に声をかけたのがきっかけで、ブラジル移民・「閔妃事件」(朝鮮)が関係していることが明らかになるとは。推理小説は好きだが、今回判明した、人のつながりの不思議さにあらためて驚いている次第である。

なお、閔妃(1854-1895年)は李氏朝鮮26代の国王高宗の妃で日清戦争の後、ロシアと結び日本を排斥するような政治を行っていた。「閔妃事件」とは1895年、朝鮮駐在日本公使三浦梧楼の直接指揮のもと駐留日本軍人と侵略の尖兵となっていた民間人らが景福宮の寝所に乱入、反日派の王妃閔妃を虐殺、陵辱のうえ焼き捨て、日本政府は事件関係者を朝鮮から退去させ、形だけの裁判をした(三浦梧楼は後に学習院の院長になっている)という事件。この後、日露戦争に日本が勝ち、韓日併合へと歴史は流れた。

     (教職・学術情報センター教授)

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農大学報 111 第44巻 第2号 、174-178ページ. 2001年1月1日発行.

  (東京農業大学教育後援会発行)