三十八度線と北朝鮮の地質学者(金錫泰先生)の死 

猪俣道也

二〇〇〇年六月一三日に金大中韓国大統領が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)

の平壌(順安)空港へ降り立ち、金正日総書記と握手した光景を見た。私は今まで

四回訪朝している。地方空港のように人影が少なかった私の訪朝時の順安空港の光

景を無意識のうちに思い出してしまった。最初の訪朝は一九九二年であった。この

時は、どの様な地質学者に会えるのか全くの白紙状態で、七月二六日(水)平壌駅

に近い高麗ホテルに不安一杯で入った。現在の社会体制になり約五〇年たったが、

「常識・発想の基盤」の違いからくる相互理解の困難さは大きい。五〇代より若い

人は現体制で教育された人たちである。そんな状況の中で最初に待ち受けていたの

が国家科学技術委員会の副局長石河龍氏であり、金錫泰教授(金策工業総合大学地

質学部学部長、当時六五歳)であった。金錫泰先生は石炭関係の地質学がご専門で

公式の席では朝鮮語しか使われない。しかし、日本語は上手で、日本の最近の雑誌

等にも目をとおしておられる大変真面目な勉強家の方であった。一九九二年の清津

付近への夜行列車での見学旅行・一九九五年の妙香山と南浦での岩石試料採集・開

城のDMZ(非武装地帯)内での岩石試料の採集(この時はナンバープレートをは

ずした車で非武装地帯のかなり奥まで入り、銃弾が飛んでくることも良くあるとい

うことで軍人に守られながら岩石を採集した)等で大変な便宜を計ってもらった。

旅行中は、学問の問題だけでなく、社会問題から人間の生き方まで大変幅広く話し、

社会体制が違っても偉い人がいるものだと、その人柄に私は敬服した。一九九八年

訪朝した際、その先生が胃の手術で面会もできないと聞き、大変ショックを受けた。

一九九五年に開城に行った時、「自分の働ける時間があまり残されていないので早

く共同研究の成果を出して下さい」と発言され、「元気な先生が何を言われるので

すか」と日本の長寿命の社会を前提にした意識で私は発言したことを思い出したか

らである。その時、既に先生は病気を知っておられたのだった。一九九九年一月に

入り、先生から「元気になって研究に没頭できるようになった。会えなくて残念だ

った。」との年賀状をいただいた。そこで五月に訪朝し大同江ホテルで金錫泰先生

と会い、まる一日密度の濃い議論をした。金先生は「手術で胃を三分の一取ったが、

得られたデータは大変面白い結果なので、成果をまとめる間に病気も吹き飛んでし

まうだろう」と言明され、素稿を書いて私宛に速やかに送ってくれることを約束さ

れた。帰国後、とにかく一安心をして共同研究の成果のまとめ方に思いをめぐらし

て過ごしてきた。しかし、前回の訪朝から約一〇ヶ月たった今年の三月初めに、石

河龍氏から東京に来ているので三月一二日(日)に是非会いたいとの連絡が入った。

当日、浅草の浅草寺の近くで久闊を叙した後に出てきたことばが「金錫泰先生が一

月にお亡くなりになった。」との連絡であった。昨秋から、新たに各種のデータが

出ると共に、データ整理中に大変面白い事実が幾つか浮かび上がり早く金先生と連

名の論文を書かなければと気が焦るばかりで数ヶ月経ってしまった時に聞いた訃

報である。あらためて自責の念にかられている状況である。今は最初の訪朝時に示

された金錫泰先生の大歓迎ぶりを思い起こし、ご冥福を祈るばかりである。

さて、六月一三日には金大中大統領が金正日総書記と握手、一五日別れる時は抱

擁という進展した光景を見て金先生とかわした次のような話題を思い出した。何時

の日か自動車を運転して、九州から韓国の釜山・ソウルを通り、三八度線・開城・

平壌・白頭山と自由に地質調査ができる日が来ることを。それを話した時は実現は

困難で、早くて一〇年あるいは二〇年後位であろうと考えていた。しかし、抱擁し

ている姿を見て、意外に近い将来実現出来る可能性が出てきたと思えるようになっ

てきた。九州から釜山・白頭山まで、朝鮮半島が日本列島の直ぐそばにあるという

実感を得るためにも、容易にドライヴできる状況になること願っている。

 もし実現できれば、写真の板門店の境界線上の会談場・三八度線などは史跡とし

ての位置付けになる。

 

(教職課程教授)


写真: 板門店の境界線の会議場(北側から撮影:建物の中央のテーブル上を境界線

が通る。一九九五年八月三一日撮影)

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農大学報 110、平成12年7月20日発行(東京農業大学教育後援会)(原文は縦書き)

Last updated on September 4, 2000.