近くて遠い国―北朝鮮訪問記
                                        猪俣道也(農大学報108号(1999年7月)、234-241ページ)
最初の訪朝      
入国と滞在中の日程
清津への夜行列車旅行
平壌と出国後の経過
一九九五年八月二二日―九月二日の訪朝
一九九八年の訪朝
一九九九年五月四日(火)―八日(土)の訪朝
四回の訪朝の感想
 
 日本列島の地質を考える場合,近隣の地質との関係を考慮することは欠かせない.
自然は基本的には連続していてシームレスである.これは朝鮮民主主義人民共和国
(北朝鮮)と中国国境にある白頭山火山の火山灰が白頭山―苫小牧テフラ(一〇世紀
前半の噴火火山灰)として北海道付近の地層中に認められ、火山灰が日本海を飛び越
えて飛来してきていることからも言える.しかし、地理的に日本海を挟み相対してい
る北朝鮮と日本は未だ国交が正常化されていないため、一九八〇年代から訪問を希望
していたができなかった.一九九二年になり最初の訪問が出来て、地質学者との交流
の糸口ができた.その後、研究の進展とともに一九九五年八月(研究交流、妙香山
南浦―開城観察と岩石試料採集)・一九九八年八月(研究交流、妙香山―南浦―白頭
山火山観察と岩石試料採集)・一九九九年五月(研究交流)と今までの四回の訪朝で
相互の理解も少しは深まってきた.また、この訪問がきっかけになり、「朝鮮半島の
太古代の地質」という研究課題(課題番号〇九六四〇五四九)で文部省科学研究費(
平成九年度―一一年度)が得られるところまで研究も進んできた.昨年夏のテポドン
の件や日米ガイドライン等との関連で北朝鮮の問題がいろいろ取りざたされているが、
一般にはあまりこの国から情報が漏れてこない.前の三回は約二週間、今年は五日間
という短期間の滞在であることと容易に地方に旅行できない国情のことを考えると、
どこまで実状を正確に認識できているか自信が無いところであるが、この間に経験し
たことを記すことは、今後交流を拡大するとき少しは参考になるのではないかと思い、
簡単な訪問記をフィールドノートのメモを見ながら書くことにした.
最初の訪朝
 一九九二年の最初の訪朝は在日本朝鮮人総聯合会中央本部の協力により、七月二六
―八月八日の間の訪問許可が得られた.目的は、私の専門が地質学なので地質学者
との交流の糸口をつかむことと、北部の清津・金策地域の地質観察をすることであっ
た.この時はどういう訳か入国するまでにトラブルが次々に起こり、本当に平壌空港
に足をつけるまで行けるのかどうか、ハラハラドキドキの連続であった。最初は、私
のパスポートの問題であった.私のパスポートは一九九〇年発行のもので三ページの
渡航先に「このパスポートは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を除くすべての国と
地域に有効である」という渡航先適用除外条項「朝鮮条項」が記載されており、一九
九一年九月の金丸 信氏(昭和一一年本学卒)の訪朝時に、この条項を削除すること
が合意され、一九九二年四月一日から適用されていた.それで、これを消さないと北
京の朝鮮民主主義人民共和国大使館でヴィザを取得できないことが出発日(七月二四
日)の二日前にわかり、出発日の前日に外務省に出向き削除するということがあった.
とにかく、それは無事処理でき北京でヴィザも取得できた。北京―平壌間の飛行便は
火曜日と土曜日の週二便である。朝九時に平壌を出て北京から平壌へ午後戻る。ヴィ
ザを前日までに北京の朝鮮民主主義人民共和国大使館領事部で得ておく必要がある.
ヴィザは、一枚の用紙形式でパスポートとは別であり、出国の時回収されるので、私
のパスポートには、北朝鮮に行った証拠が残っていない.二番目のトラブルは北京空
港で起こった.七月二五日(火)に平壌便の飛行機へ乗るため午前中に空港へ行った
のだが幾ら待ってもチェックイン出来ない状態が続いた。そして、ついに一七時に
「平壌空港付近の気象状況が暴風雨のため飛行機が出発できず、明朝一一時三〇分に
飛ぶ」との朝鮮航空(高麗航空)の案内があり、トランクを朝鮮航空事務所へ預け、
空港近くのホテルへ一泊することになってしまったことである。幸い翌日の二六日に
は一一時三〇分にチェックイン,一二時五〇分(北京時間:日本より一時間遅れる)
に離陸し、約一時間の飛行後、一四時〇五分(朝鮮半島は日本と同じ時間帯を使って
いる)に平壌の順安空港に着陸した。
入国と滞在中の日程
  一四時三五分に入国審査後、出迎えの指導員に会い、一五時一〇分に平壌駅に近い
高麗ホテルに落ち着く。何とか最初の訪朝の実感が得られた.北朝鮮を訪問すると必
ず指導員が付くが、彼らは、滞在中の基本的手配を処理してくれる人であり、指導員
と我々との相性の善し悪しで、その滞在の成否が決まると言っても言い過ぎではない.
さて、一休みの後、町の状況を知りたいと思い高麗ホテルから平壌駅前ー金策工業総
合大学ー大同江河畔へと様子を見に散歩に出かけ、まず感じたことは喧噪の北京から
到着したためか、街並みも整然としすぎており静かで人々の生活感があまり感じられ
ないことと自転車が見られないことであった.しかし、路面電車が来ると我先に乗り
込む姿があり、少しホットした気分になった。ホテルへ帰ると、国家科学技術委員会
の副局長石河龍氏(金日成総合大学の地球物理を卒業した人)が待っていた。
日本をでる前に訪問の目的等はあらかじめ知らせてあるのだが、とにかくこちらの要
望を伝え、日程を調整してもらうことを依頼する。最初の訪朝で知らなかったのだが、
滞在中の日程等は現地に着いて初日か二日目にこちらの希望を指導員らが聴いてから
具体的に検討にはいる.この時に最大限こちらの希望を主張しないと当日の朝になっ
ても、その日の日程が不明で不安になることになる。この点が日本と大きく違い、日
本人にとってはイライラの原因の一つになる.また、日程が検討されている間の時間
は、金日成に関係する場所(金日成の像・万景台等)に毎回行くことになる.これも
通過儀礼(儀式)と認識し、何でも見てやろうという気持ち或いは前回の訪問の時と
の違いが有るかどうかというような方向に関心を向けないと限られた旅行期間なので、
時間を無駄に使っているように感じられ大変イライラすることになる.            
  翌日になり八月八日までの日程が決まり、市内観光(万景台等金日成に関係すると
ころが中心)・金策工業総合大学訪問・清津市と金策市付近の見学(列車での小旅行)
・金日成総合大学博物館・ピョンソンの地質学研究所の地質学者との懇談会をこなすこ
とになった.ホテルの食堂で食事の時は滞在期間中決まった机で食事を取ることになっ
ている.夜のテレビは軍事的な放送ばかり。朝、テレビは何もやっていない。
清津への夜行列車旅行
 清津付近の見学は金錫泰金策工業総合大学地質学部学部長(当時。現在は七〇歳で朝
鮮地質学会会長・教授)・国家科学技術委員会責任指導員の金相録氏が同行、夜一九時
五〇分平壌発の夜行列車(一二両連結、我々は寝台車)で翌日の一一時三〇分に清津着.
列車は扇風機の風のみで、窓は開かず大変暑い列車であったので下着姿で、金先生をま
じえ話し合いができ、お互いの状況を知り合える良い機会が持てた.清津市は製鉄関係
の工場が多数あり、鉄鋼の町である.超塩基性岩体の大露頭の蛇紋岩特有の崩壊が見ら
れる場所と朱乙温浦(温泉)の付近の地質を観察。ここでは一九六一年五月一五日に金
日成が地質屋に対し資源開発の重要性を訴えた会議室が保存されているところを見て終
わり、金策に向かう予定あったが,列車来ず、夜半に到着予定とのことでホテルに引き
返す。指導員も駅へ行ったり,電話で列車を確かめたりしたが結局列車に乗れず、朝を
迎える。それで金学部長より,「朝鮮地質の概要」の講義を一日してもらい時間をつぶ
す。夕方の一九時二〇分清津発の列車で直接平壌に帰ることになり、翌日の一一時三〇
分平壌駅に着き金学部長とは駅で別れる。この小旅行は目的の野外見学ができなかった
り、列車が来ず金策市を訪れることも出来ず、その時は不成功に終わったと大変落胆し
たが、その後の研究交流の上で、金錫泰先生等から受けた講義・話が有意義なもので、
今ではこの旅行は決して失敗で有ったとは思えないから人の心は不思議なものである.
平壌と出国後の経過
 次の日に平安道平城市の研究科学都市にある地質学研究所の研究者がホテルに来て、
お互いの状況を話し合い、共同研究の進め方を協議する.この時、「朝鮮の地質(英語
版)」を年末に出版の予定とのことを聞く。滞在最後の七日の午後、金錫泰学部長が面
会に来られ入試の時期で時間がとれないことと地質図は出発前に許可が降りず手渡せな
いことの詫びに来られた.その後科学技術委員会局長・副局長と今回の訪問についての
懇談会を持ち今後の研究協力を協議。八日(土)の出国間際に地質学研究所の人からの
依頼とのことで,岩石サンプルを石氏持ってきて渡される.
 その年の一〇月に石氏が来日し,金先生からの地質図二枚及び説明書を持参,一九九
四年六月には「朝鮮の地質(英語版)」が送られてきた.岩石の良い研究データが得ら
れたので研究協議と現場を見たいとの希望を出し二回目の訪朝を一九九五年にした。
一九九五年八月二二日―九月二日の訪朝
 国家科学技術委員会第二局長金相録氏(前回旅行に同行した人)が出迎えてくれ、金
錫泰先生・地質学研究所崔願禎科学副所長・白竜俊教授と交流する。また,新たな試料
を採取しに妙香山・南浦・開城へ金錫泰先生が同行してくれる.この年は大雨が降った
時で、あちこちで道路が崩れて目的地へ行けない事態も生じた。大変感激したことは、
開城に行った時、ナンバープレートをはずした車で非武装地帯のかなり奥まで入り、軍
人に守られながら岩石試料を採集できたことである.出国の日も朝は雨で空港までの道
路が一カ所五〇センチ以上の冠水で,一瞬帰れるか心配になった。
一九九八年の訪朝
 白頭山火山に登り天池を見るとともに、地質関係機関を訪問し地質学者と今までの研
究成果の討論することを目的に訪朝した。しかし、これまで色々の交流をしてきた金錫
泰先生が胃の手術で面会もできず、もうダメの様なことを伝えられ大変ショックを受け
た。それは前回、開城に行った時、「自分の働ける時間があまり残されていない」と発
言され、私は「元気な先生が何を言われるのですか」というようなことを日本の長寿命
の社会を前提にした意識で発言したことを思い出したからである.その時、既に先生は
病気を知っておられたのだった.また、一年前の一九九七年夏にも訪朝の予定で手続き
を進めたのだが出発直前になり「今回の訪朝は事情により延期してくれ」との連絡が科
学技術委員会から入り、取り止めた経緯もあった。それで金錫泰先生との共同研究もこ
れまでだという後悔の意識が頭を占めてしまった。天候に恵まれ風光明媚な白頭山火山
に登り、天池の水も飲んだのだが先生のことが気になり続けた。この時は白頭山を見た
いという地質学者数人と同行したので、あわただしく旅行も終え、訪朝のまとめもする
気にもなれず年を越した。一月になり金錫泰先生からの年賀状が舞い込んだ.それには
「元気になって研究に没頭できるようになった。会えなくて残念だった。」と書いてあ
ることをみて、早い機会に訪朝したいと考え、行動を開始した。幸い科学院院長リイ 
グワンホ氏からの三月二六日付の招請状が届き五月に金先生に会うことが出来た。
一九九九年五月四日(火)―八日(土)の訪朝
 四回目ということと滞在期間が短期のためか、四日は順安空港から金日成像にまわり
献花後、大同江ホテルに入り、日程調整。五日(水)は午前中のみ儀礼(金日成宮殿の
遺体に礼拝。万寿台)。午後は地質学研究所へ行き情報交換・協議(カリ肥料の資料・
石油資料手渡す。)。 北朝鮮では石油が不足していることと資源を輸入できないこと
から、自国にある鉱物資源を肥料として生かせないかというような研究資料を欲しがっ
ている.六日(木)の午前中は地質学研究所で今までの研究に対する朝鮮側の見方を聞
き、今後の進め方の検討をする。午後はホテルでお元気になられた金錫泰先生と親しく
話せた。手術で胃を三分の一取られたとのことだった.今年は大学院の講義も週一回程
度しているとのことで、共同研究等の話も順調に進めることができた。七日(金)の午
前中は金錫泰先生と協議、午後はホテルで地質学研究所の人と打ち合わせ。今後の研究
用の試料を一部手渡される.
四回の訪朝の感想
  最初の訪朝から八年たち、世界情勢も変わったがこの国も変化は遅いが確実に変化し
ているように今年は感じられた。些細なことかもしれないが自転車の増加と私の感じで
はなはだ頼りないが人々の視線が前より柔らかくなったことである。現在の社会体制に
なり約五〇年、発想の基盤の違いからくる相互理解の困難さは大きい.六〇代以上の世
代は、違う社会を知っているが、五〇代より若い人は知らない.五〇代以上の人は日本
語の文献・本を読める人もかなりいるようである.朝鮮語は表音文字で文法も日本語と
同じである。この五〇年教育から漢字を排除、古い石碑の横に朝鮮語の訳の碑があり、
指導員に聞いたところ最近では行き過ぎということで、見直され漢字も教育するように
なったとのことである。
  また、北朝鮮と関係ができるまで知らなかったのだが、在日朝鮮人の帰国者に対する
気遣いと貢献は複雑な事情が有りながら大変なもので、人間として評価に値するのでは
ないかと思われる.
  研究者のサガかもしれないが、我々が図書館で新着雑誌に目を通さないと落ち着かな
いのと同じで、北朝鮮でも科学者は外部の情報を大変欲しがっている.研究者の情報の
少なさを埋めるため、日本の研究者が色々の書籍・文献を人知れず送っていることも、
この過程で知った。この様な草の根の各種の交流の積み上げが、関係改善に繋がってい
くのではないだろうか.
  ホテルからの国際電話は比較的容易に繋がるが五月四日平壌に到着した日にホテルで
葉書を大学宛出したところ、二週間後の五月一九日に着いた。やはり近くて遠い国であ
る。(教職課程 教授)    

注:原版は縦書き。11枚の写真入り。その内の写真1・写真7と写真11をここに載せる.                                    

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更新日 2000年2月13日