東京農業大学

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東京農業大学・建学の祖 榎本武揚先生とは

 

「科学する心」と「冒険心」をあわせもった万能人

 榎本武揚先生(1836〜1908年)は幕臣の家に生まれ、12歳で幕府の昌平坂学問所に入学し儒学を学びました。26歳のとき幕府初の海外留学生に選ばれオランダに留学。4年余の間に洋式海軍技術、国際法、農業、工業などを学び、蘭・仏・独の3ヵ国語を身につけました。
 留学への航路では、ボルネオ島沖で船が難破し、命からがらボートで無人島に上陸。通りかかったオランダ船に救助され航海を続け、インド洋や喜望峰をまわる大航海中には、洋上や寄航先で生物の生態系もつぶさに記録。大西洋を北上してオランダに上陸したのは、出航から324日目のことでした。
 先生が後に多くの国家事業を担う原動力となったのが、留学で得た「科学する心」と、その後も体験する「冒険」の歴史でした。帰国後まもなく戊辰戦争によって幕府は倒れ、明治新政府が発足。しかし明治初期の日本にあって、榎本先生は近代科学の知識と国際感覚をもつ時代の先駆者であり、万能の人ともよばれました。

 

明治政府の要職を歴任〜東京農業大学の創設

 その類まれなる豊かな才能を惜しんだ明治政府の要請によって、榎本先生は農商務大臣、文部大臣、外務大臣などの要職を歴任。1875(明治8)年には、全権特命大使としてロシアに渡り、「樺太・千島交換条約」を締結させます。そして帰国の途は、シベリア大陸を横断する陸路を選択。当時は鉄道もなく道路も未整備で大部分は荒野でした。ウラジオストックまでの2ヵ月は、悪天候、悪路と戦い命がけで大自然を探索する冒険の旅でした。
 留学や政府の激務を通じて諸外国の産業を視察した榎本先生は、日本が国際社会で競争できる国力をもつためは、安定した農業生産力の発展が欠かせないと考えました。そして1891(明治24)年に自ら創設した育英黌農業科(現在の東京農業大学)は、近代農業の技術を国内各地に広めるリーダーたちを育成するという、高い目標を掲げる学校でした。

 

実学主義の提言

 当時、官立(国立)の農学校が理論優先の教育をおこなっていたのに対し、榎本先生は「教育とは、セオリー(理論)とプラクティス(実践)の二者が車の両輪のように並び行われることで、はじめて完全なものとなる」とし、実習を重視する教育の必要性を強く唱えました。しかし、理論を実証するための実習には作業上の幾多の困難もともないます。困難を乗り越える挑戦がいかに人を大きく成長させるか、そのことを誰より熟知する榎本先生ならではの未来を予見した提言でした。
 多忙な公務にもかかわらず、学生が校外実習に出るときには、彼らの身分証明書のすべてを自らの手書きによって発行したといいます。榎本先生の掲げた理念は“実学主義”の草分けとなり、120年以上を経たいまも、東京農業大学の教育の原点として力強く受け継がれています。

 

榎本イズムと東京農大の軌跡

1891(明治24) 年   育英黌農業科が設立
1893(明治26) 年   育英黌から独立し、私立東京農学校と改称
1925(大正14) 年   大学令により東京農業大学となる
1931(昭和 6) 年   樺太(現ロシア領サハリン)に寒冷地農場を開設し、世界最北地での初の稲栽培に成功
1982(昭和57) 年   網走市内に寒冷地農場を開設し、本格的な地域連携をスタート
1989(平成元) 年   オホーツクキャンパス開設、生物産業学部が開校

 

榎本武揚がオランダの友人に贈った言葉「冒険は最良の師である」の自筆

 

馬に跨り前方を指さす榎本武揚像(北海道江別市 榎本公園内)

 

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